婚約破棄されたぽちゃOL、 元スケーターの年下ジムトレーナーに翻弄されています
悠貴の車は、車高が低めの黒いコンパクトタイプだった。
よく見ると、前に玲央が「いつか買って乗り回したい」と言っていた車種だ。
そこそこ良い値段のはずだったけど、ジムのトレーナーは軽々と買えてしまうものなのだろうか。
助手席のドアを開けてもらったので、汚してしまわないか細心の注意を払いながら、緊張しながら乗り込む。
きつ過ぎない、サボン系の良い香りがする。
中はふたりで乗るには十分な広さで、外の見た目よりゆったりとしていた。
シートもダッシュボードもキレイに保たれているけど、悠貴はキレイ好きなのかもしれない。
そういえば、ジムでもよくキビキビと掃除をしているところを見かけた。
「寒くない? 椅子倒したかったら倒して」
「うん、大丈夫」
「なんか緊張してない?」
「そんなことないよ」
それはちょっと嘘だ。好きな人の車に、しかも助手席に乗せてもらったら少しはドキドキする。
フロントガラスに叩きつける雨を、ワイパーが一定の速度でさらっていく。
雨のせいでぼんやりと光る街の灯りを、私もぼんやりとながめた。
悠貴の運転は丁寧だった。
私を乗せているからというより、普段から丁寧なんだろうなということが伺えた。
海沿いに差し掛かり、ビルがだんだんに減っていく。
横浜はドライブスポットが多い。
雨が降っていなければ、海面に橋や船の灯りが反射してロマンチックだっただろう。
今は、ただ暗闇の中を走っているみたいだった。
悠貴はラジオを流さないタイプなのか、静かなエンジン音と、たまに出すウインカーの音だけが車内に響いた。
送ると言ったくせに、悠貴は私と楽しくお喋りがしたいわけでもないらしい。
このまま彼の運転で、振動に心地よく身を任せていようかと思った時だった。
「俺、カナダには行かないよ」
突然の核心をつく発言に、ハッと意識がクリアになる。
思わず右隣の悠貴の顔を見てしまったけど、いつもと変わらない様子に見えた。
「アンナになんか言われたんだろ」
「……なんで知って」
「本人が言ってた。マジで余計なことしやがる」
口角を歪めて冗談っぽく笑う悠貴の仕草が、アンナさんに似ていた。
お互いのことを話す時に同じ所作をしてしまうなんて、やっぱり十年以上の付き合いの証だ。
「最初から行くつもりないから、気にしないで」
その言葉に、正直ホッとする。
それと同時に、心の底に沈んでいたモヤモヤが湧き上がってくるのを感じた。
「だから瑠衣さんが悩む必要ない。今まで通り、楽しくトレーニングやって――」
「もう滑りたくないの?」
悠貴は、静かに黙ってしまった。
運転中だから当たり前だけど、じっと前を見据えているので彼の表情が読めない。
「スケート、好きなんでしょ」
「まあやってたから、多少は」
「嘘だ」
「いやどっちだよ、そっちが聞いてきたのに」
「多少は、じゃなくて大好きなんでしょ」
「そういうことにしといてもいいけど」
のらりくらりと交わす悠貴に、なんだか胸が苦しくなってくる。
自分の気持ちを押し込めているであろう彼を見ていると、私も辛いのだ。
「この間見たんだ、悠貴が滑ってる動画」
「へえ、もうとっくに見てると思ってた。うちのジムに通ってる人、半分くらい見てるんじゃない?」
「なんか、こそこそしてる気がして……結局見たんだけど」
「瑠衣さんって、変なところで律儀だよね」
「それより覚えてる? 前に、私が仕事やお菓子の話したとき、好きなことを楽しそうに話してるのが好きって言ってくれたの」
「……ああ、うん」
たくさん喋ってくれて嬉しいとまで言ってくれた。
理世曰く「好きな相手にしかそんなこと言わない」ということだったけど、今の私にはその気持ちがよくわかる。
「私も同じことを思ったの」
「どういうこと?」
「悠貴はあんまり自分のことを喋らないけど、演技を見たらわかる。表情とか、目線とか、体の動かし方とか、全身でスケートが好きなことを表現してた」
「……細かいとこまで見すぎ」
さっきまで余裕に言葉を返していた悠貴が、早口で吐き捨てるように言った。
図星なのかもしれないし、恥ずかしがっているのかもしれない。
私の家がある町まで来ると、だんだん雨足が弱くなってきたようだった。
「思わずたくさん話しちゃうような好きなこと。私にとって仕事やお菓子がそうみたいに、悠貴にとってはそれがスケートなんだよね」
郊外の方まで来ると道は混雑しておらず、あっという間にマンションに着いてしまった。
まだ、話は終わっていないのに。
ゆっくりとスムーズに、マンションの敷地に車が停まる。
「悠貴、本当にいいの?」
「なにが?」
「アンナさんと一緒に、カナダに行かなくて」
「だから、ジム放り出して行くわけないだろ」
「それはそうかもしれないけど、スケートができるチャンスって期間が限られてるんじゃ……」
話し始めて、ふと我に返った。
なんで私、悠貴をカナダに行かそうとしてるんだろう。
悠貴のそばにいたいのは、本当なのに。
そんな私の戸惑いが伝わったのか、シートベルトを外した悠貴がこちらに身を乗り出した。
なんだか寂し気な瞳に覗き込まれて、胸が締め付けられる。
「瑠衣さんは俺と、一緒にいたくないの?」
違う、そうじゃない。
だけど、悠貴がチャンスを逃してしまうのはもっと嫌だ。
言葉に迷っていると、悠貴がゆっくりと手を伸ばしてきた。
シートと背中の間に、探るように腕が入り込んでくる。
緩慢な動きで、ぎゅうっと強く抱きしめられた。
雨で少し濡れた頭を肩口に擦り付けられて、悠貴の匂いと、雨の匂いが混じる。
「俺は離れたくない」
悠貴の腕に入る力が強くなっていくたびに、だんだんと心臓の鼓動も早くなっていく。
そんな中、顔が見えないのが不安で、寂しそうな顔をしていたらどうしようと思った。
導かれるように悠貴の背中に腕を回そうとして、すんでのところで止めた。
悠貴が、本当はスケートをやりたいのはわかり切っている。
でもカナダに行きたくないのは……私と離れたくないから?
私の存在が、彼にとって邪魔になってしまうんじゃないか。
それはダメだ、絶対に。
すんでのところで止めた腕で、そっと悠貴の肩を掴んだ。
彼を優しく引きはがす。
悠貴の表情は、俯いていてよくわからない。
「……私は、また悠貴が滑っているところを見たい」
その言葉に、悠貴が目を合わせてくる。
まだ納得いっていないような、すがるような瞳だった。
子どもみたいだなと思ったけれど、そういえば彼は5個も年下なんだった。
こういうとき、余裕を持って包み込んであげるのが大人なのかもしれない。
「寂しくなくなる方法、教えてあげるね」
「……なに」
「大人はね、思い出があれば頑張れるんだよ」