婚約破棄されたぽちゃOL、 元スケーターの年下ジムトレーナーに翻弄されています

 玲央はキョトンとした顔をして固まったけど、すぐにやれやれという感じで軽く息を吐いた。

「もしかしてあいつ、姉ちゃんになにも話さなかった?」
「わかんない。悠貴がなにを話してなにを話してないのか、私はなにも知らないの」

 そう口にして、自分ですごく悲しくなった。
 好きだったのに、私はやっぱり悠貴のことを知らない。
 今になってわかったことが増えたところで、なんで知ろうとしなかったのか後悔することしかできないのに。

「……俺の17の誕生日にさ、夜に悠貴つれてきたの覚えてる?」
「え?」

 まったく心当たりがない。
 そうだったの? と驚いてさえいる。

 玲央の17の誕生日と言えば、7年前だ。
 その時にはもう実家を出ていたけど、お祝いのために帰省していたのだった。
 
 悠貴は、前にジムの屋上で見た動画の大会を最後にスケーターを引退したらしい。
 コメント欄にそう書いてあった。
 
 だから、スケートをやめて少なくとも1年は経っている頃だ。

「全然覚えてない。……でも何人か家に来てた子はいたよね」

 玲央は夕方まで小学校や中学校の同級生と出かけていた。
 家族でのお祝いは夜にするつもりで……そうだ、思い出した。

「友達五人ぐらい急に家に連れてきて、母さんに怒られたんだよな」
「ああ、そうだったね」
 
 玲央がわんさか友達をつれてくるのは昔からのことだったので、その時のことは特別記憶にあるわけじゃない。

「悠貴のことはほとんんど無理やり誘ったんだ」
「そうだったんだ」
「うん。あの頃の悠貴は、その、見てて心配だったというか……」
「……それって?」

 スケートをやめたことを引きずっていたから?
 そんな安直な予想は、トーンを落とした玲央の言葉にかき消された。

「夏休み前だったかな、悠貴の母さんが亡くなって」
「え……」

 そんなこと、思いもよらなかった。

 ダイエッター向けのお菓子を作る相談をした時に、お母さんにお菓子を手作りしてもらっていたことを話してくれた。
 悠貴のことをすごく応援してたんだねと話したら、静かに微笑んでいた。

 その顔が少し寂しそうだったのは、やめたスケートや単に懐かしさに思いを馳せていただけではなかったんだ。

「病気が見つかってからあっという間だったみたいで、多分悠貴も混乱してた。だから高校来なくなったり、夜にふらふら出かけたりすることが多くてかなり荒れてた」
「悠貴に兄弟は? お父さんとか、家族は」
「いないと思うし、元々片親だったって言ってた」

 それじゃあ、悠貴はまだほんの17歳の時に孤独になってしまったんだ。

 お母さんの話をしていた時の悠貴の反応を見るに、きっと仲が良かったんだと思う。
 アスリートには付き物の厳しい食事制限も、悠貴が我慢しすぎないように工夫した料理を作って支えてくれたんだろう。

 その時の悠貴の気持ちを思うと、心を冷たい紐で縛り上げられているみたいだった。

「このまま高校やめるんじゃないかって思ってさ。でも悠貴にはそのまま沈んでいってほしくなかったというか、なんというか。だから毎日遊びに誘ってた、毎回は来てくんなかったけど」

 それで無理やりでもうちにつれてきたということか。

「玲央も大概おせっかいだね」
「友達思いって言ってよ」
「でも、私もそうすると思う」

 ふたりで顔を見合わせて静かに笑う。

「そんな辛い状況にいた悠貴に、私はなにを話したんだろう」

 悠貴はずっと覚えてくれていたのに、私は今の今まですっかり忘れていた。
 忘れていたというか、今もその時になにを話したかさえ覚えていない。

 それほど悠貴の心に残るような出来事があったのだろうか。

「私、なんで覚えてないんだろう」

 今なら、悠貴が私に思っていることや隠している気持ちを全部知りたいと思うのに。

「まあ正直7年前のことなんて忘れるのが普通だからさ」
「玲央は悠貴から聞いた?」
「内容は聞いてない、てか教えてくれなかったけど」
「そっか」
「でも安心してよ」
「なにを?」
「つまんないことだったら悠貴だってそもそも覚えてないだろうし、悪いことだったら姉ちゃんのトレーナーなんて引き受けないからさ。きっとなにか良いこと言ったんだよ」
「そうだろうけど……」
 
 楽観的な玲央らしい。
 それでも、彼の言う通りだったらいいなと思った。

「実はさ、少し前に悠貴に会ったんだ。だから今日姉ちゃんにも話をしにきたんだけど」

 バッと玲央の方に顔を向ける。
 ということは、悠貴はまだカナダへは行っていないんだ。

 玲央は公園の遠くの方を見つめて、思い出すようにゆっくりと口を開いた。

「俺、またあの人のこと思い出にしなきゃいけないって言ってた」

 思い出、という言葉がヒヤリと胸に響いた。
 あの雨の夜、私は大人ぶって悠貴に「思い出があれば頑張れる」と言った。

 7年も思い出を胸に仕舞ってくれていた悠貴にとって、なんて酷なことを言ってしまったんだろう。
 心臓がドクドクと脈打ち始める。
 
 どうしよう。悠貴のためと言いながら、結局は悠貴を傷つけてばかりだった。
 
 ブランコのチェーンを両手で掴むと、ギィと鈍い音がした。
 握った手の平が、痛いほど冷えていく。

「なにがあったか知らないし、弟のくせに姉ちゃんの味方しないのは変かもしれないけどさ」

 遠くの方を見ていた玲央が、私に視線を戻した。
 目が合うと、彼は困ったように笑う。

「悠貴の気持ちもちゃんとわかってやってよ」

 その言葉が、胸にゆっくりと染みていく。
 玲央に諭される日が来るなんて、思ってもいなかった。

 でも彼の言うことは、その通りだと思う。

 悠貴の気持ちを勝手にくみ取った気になって、彼のためといいながら勝手に姿を消してしまった。
 私、最低かもしれない。

 ブランコからまっすぐ立ち上がると、カシャンと音が鳴る。
 悠貴と話さなきゃ。

「悠貴、まだ日本にいるんだよね?」
「うん、ちゃんといる」

 彼の思いをちゃんと聞いて、私も飲み込んでしまった気持ちを伝えたい。
 痛いほど冷えた手を、グッと握りこむ。

「玲央、ありがとう。ごめんね迷惑かけて」
「別に、なーんもかかってないよ」

 そう言って屈託なく笑う弟を、久々にギュッと抱きしめたくなった。

 そして優しく頼もしい弟に、気になっていたことをぶつけてみる。

「自分の友達とお姉ちゃんがそういう関係になるの……嫌じゃないの?」
「……よくわかんない、びっくりはしたけど」

 正直な感想に、逆に安心する。

「でも、その……」

 玲央が、言葉を胸に溜める様に言いよどむ。

「ふたりに何があってもさ、姉ちゃんも……悠貴も、大事なのは変わらないよ」

 迷いながらも紡がれた言葉に、確かに玲央の愛情を感じて鼻の奥がツンとする。
 ブランコから立ち上がって、「ありがとう」と抱きしめる様にそっと弟の背中を撫でた。
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