婚約破棄されたぽちゃOL、 元スケーターの年下ジムトレーナーに翻弄されています
悠貴が滑り終え戻ってくると、私たちは観客席に並んで座った。
寒かったのか息が切れたのか、悠貴は顔を少し赤くしていた。
ひとりだけど盛大に拍手をして、ひとしきり熱烈に感想を語ったあと、気になっていたことをたずねてみた。
「動画いくつか見たけど、今の演目ってなかったよね……? 雰囲気も違ったけど、もしかして最近練習した振り付けなの?」
「いや。大会でやろうと思ってたやつ。できなかったけど」
「それは……」
引退することになったから、用意していたけど世に出なかったものだということだろうか。
あんなに素敵で引き込まれる演技ができるのに。
もったいないような悔しいような気がして黙ってしまうと、悠貴は明るく笑って見せた。
「だから、瑠衣さんは特別って言ったでしょ。俺が世に出してない滑りまで見られるんだから」
そこまで言ってくれたけど、私の気持ちは晴れなかった。
「……特別なのはもちろん嬉しい。でも、そう思ってくれるからこそ、知りたいことがあるの」
真剣な態度に、悠貴も私がなにを聞こうとしているのか察したみたいだった。
「悠貴のことを信じてないわけじゃない。色んな噂も聞いちゃったけど、私はあなたが優しい人なのはよく知ってる」
前置きしながら、膝の上に置かれている悠貴の手をそっと握った。
ずっと氷の上にいたからか、私よりもひどく冷たかった。
「……さっきの演目だけど、さっきも言った通り大会で滑る予定だった」
――それは悠貴が16歳の時で、大会の演技直前の練習中に起こってしまったらしい。
演技前の一定時間は、スケートリンクの各所で練習が認められる。
範囲や時間などで優先して練習して良い選手が決まっていて、メインで滑る選手以外は端の方で練習するようになっているらしい。
「大会の本番前だから緊張するし、周りが見えなくなってたんだろうな。俺も避けられなかったのが悪いけど」
悠貴がメインで練習している最中に、ほかの選手がぶつかってきてしまったのだという。
向こうが結構なスピードだったこともあって、衝突された悠貴は足をケガして大会には出られなくなってしまった。
「それは……悔しかったね」
「まあケガなんてよくあることだから、そんなに気にしてなかったんだけど」
悠貴は相手を責めることは一切しなかった。
ただ相手選手のコーチとアンナさんが現役時代のライバル同士で、当時の激しいライバル関係やいざこざを持ち出されて当時は嫌な意味でスケート界で話題になったという。
さらに相手コーチや選手の言い分を週刊誌が取り上げ、悠貴がトラブルを起こしたとかアンナさんがそれを支持したとか、あることないことが出回ってしまったのだった。
アンナさんが、悠貴がスケートをやめたのは自分のせいと言ったのはこのことだったんだろう。
それでも諦めずにリハビリを続けていたけど、なかなか思うように体が動かない。
そんな中、誰よりも悠貴の味方で応援してきた、二人三脚で頑張ってきたお母さんが病気になってしまった。
「……だから、なんかもういいやって。全部意味なんてないよなって思って」
想像していたよりも理不尽な話に、悔しさが込み上げてくる。
もちろん悲しさや切なさも感じた。
でもこんなに優しくて、ただスケートを頑張っていた悠貴が、ここまで打ちのめされる必要はあったのか。
「悠貴は優しすぎるんじゃない? 相手選手の言ったことは全部嘘ですって、なんで言わなかったの」
「そんな醜い争いしても仕方ないだろ。俺も相手も有名な選手じゃないから、燃え上がったものはすぐ飽きられるしなかったものになる」
「でも……」
「いいんだ、もう終わったことだから。ほら、瑠衣さんがそんな顔すると思ったから話したくなかったんだよ」
悠貴の冷たい指に、目元をそっと拭われる。
「……ごめん。話してもらったのに、うまく言葉にできなくて」
自分の無力さに肩を落としてしまう。
悠貴ほどの辛い経験をしたことのない私が、今さら彼になにかしてあげられることがあるのだろうか。
「もう瑠衣さんからはもらってる」
「……え?」
「理不尽なこととか、もう戻ってこない夢とか人とか、絶望するのは簡単だった」
フッと悠貴が目を伏せる。
一瞬暗い雰囲気をまとった彼だったけど、すぐにスケートリンクへ目を向けそれを払拭させた。
「それでも、どんなにもういいやって思ってても。本当は前を向いて生きていきたかった」
悠貴の思いに、胸が締め付けられそうになる。
そうだと思う。どんなに辛いことが重なったって、忘れられなくて引きずったって、私たちは落ち込み続けたいわけじゃないんだ。
「たまたまだって思うかもしれないけど、俺にとってはほんのちょっとの甘いものと瑠衣さんの信念が希望になったんだ」
薄い水の膜が張った、悠貴の目がゆらゆらと揺れた。
その度にスケートリンクの光が反射して、キラキラ光る。
それを見て、なんとなく悠貴はもう大丈夫なのだと思った。
悠貴は、ちゃんと前を向いている。
初めて会った時のおせっかいが、思いがけずそのきっかけになっていたなんて。
それならば、今度は隣で彼を勇気づけたい。
「悠貴」
「んー?」
話して気が抜けたのか、悠貴は軽い調子で答える。それでも私は真剣に続ける。
「カナダに行くなら、私もついていく」
理世に言われたことを思い出す。
大人こそ傲慢に生きた方が良い。
だから私は悠貴のことも、悠貴の夢も諦めない。
安定した人生、結婚――少し前の私が渇望しとらわれていたもの。
そんなものいらない。
悠貴のために身を引くのでも、悠貴のために自分を犠牲にするのでもない。
悠貴を好きな気持ちに嘘をつかず、そばにいること。
それが私らしく生きる、ということなんだ。
相当覚悟を持って言ったことだったのに、悠貴は呆れたようにため息をついた。
「……まーだ言ってんのかそれ」
「私、ちゃんと英語もフランス語も勉強する」
「待って、先走りすぎ」
「一緒に行っちゃダメなの……?」
「違う。そうじゃない……!」
あからさまに残念な表情をしてしまったのか、悠貴は私の顔を見てギュッと唇を噛んでいた。
「前も言っただろ。ジムの経営放って行くわけないって」
「それは……。え?」
また押し問答になってしまうかと思った時、聞き慣れない言葉が耳に入った。