いつか、かぐや姫のお母さんだった話をしましょうか
揺さぶられたくなかった。
いぶきが消えるまで一分一秒が大切なこんな時に、余計なことなんて考えたくなかった。
でも見えないはずの視線を背中に感じる。気付けば弱くなりそうになるから、気付かないふりを続ける。
あと四ヵ月もすれば、彼も勘違いだと気づくはずなのだから。
忍の想像の中で浅倉から気の毒そうな目で見られ、胸を抉られそうになる。
最初から覚悟していたことなのに、誰からそうみられても構わなかったはずなのに。
「いぶき」
昨日の娘の言葉が胸に刺さっている。亀井瑛太からまめなアプローチがあることをからかった忍に、いぶきはまじめな顔をして首を振った。
「あのね。たとえ私が亀井瑛太くんに恋をしても、万が一お付き合いをしたとしても、彼は私を忘れてしまうの。何もなかったことになるんだよ」
それは普段とは全然違う、何かをぐっと押さえた声で。
心が揺れているのは娘もだったのだ。だからこそ感じる恐怖は忍の比ではないことを理解した。でも生まれた気持ちを大切にしてほしいと思ってしまい、だからこそ母親である自分がまず踏み出そうと思うのに――。
「十代以降、恋愛未経験のおばさんなめるなって状態だわ」
まだ高校生のほうが上手に恋をするだろう。
いっそ、付き合おうとか言われたなら、何か対処しようがあったかもしれないのにとも思う。毎晩、明日は話してみようと決意するのに、ずるずる日にちが過ぎ去る。
それでも、いぶきが「夢」だと教えてくれたことがあるから、娘のために、何より自分の気持ちにけりをつけるために、忍は勇気を出さなくてはいけない。
あの「夢」をかなえてあげられなくても、踏み出したことはいぶきの背中を押すだろうと思うから。
それでも今の忍には、浅倉と話をするのはあまりにもハードルが高く、本当は途方に暮れていたのだ。
* * *
「うわ、土砂降り……」
まだ六時過ぎだというのに、夕立のせいかかなり薄暗かった。
今日はいぶきが車を使うということで、朝は送ってもらい、帰りはバスの予定だった。車が一台なのは予算の都合だが、今まで特に不便はなかったのだ。
「コンビニまで走るかな」
バス停までは徒歩五分ちょっとだが、この雨ではずぶぬれになるのは間違いない。コンビニまでなら走って一分。そこで傘を買えばそれほど濡れずに……
「いえ、無理ね」
バケツをひっくり返したような雨だ。弱くなるまで待った方が無難だろう。もしくは無線タクシーを呼ぼうかと考えたが、いぶきは今日は外泊だ。帰っても一人のため、のんびりしようと決めた。たまにはどこかでご飯でも食べて帰ろう。
そう決めて空を見上げたときだった。
「こりゃ、すごい雨ですね」
真後ろから浅倉の声がい超えてビクリとする。
雨の音で全く気付いていなかった。
「そうですね」
昼間の彩子の言葉が一瞬脳裏をよぎるが、忍は以前の自分を思い出しながらゆったりと答えた。挨拶以外しないほうが不自然。変に意識しなければいいのだ。
だいじょうぶ、普通に話せる。
「浅倉さん今帰りですか? 雨すごいから気を付けて下さいね」
浅倉も車での通勤だったはずだ。この雨では視界がかなり悪いだろう。
会釈して踵を返し、一度会社に戻るか休憩所でコーヒーでも飲もうかと考えていると、「あの」と声をかけられる。
「今日いぶきちゃん、子どもキャンプの指導でしたよね」
「あ、はい」
たしかにいぶきは明後日まで、市主催の子どもキャンプ指導員のバイトだ。一瞬なぜ知ってるのかと思ったが、本人から聞いたのだろう。二人は「友だち」なのだから。
「あの、佐倉さん。今から俺と、飯食いに行きませんか?」