bitter Friend

第2話 息の仕方を忘れた夜に

(宏弥)

ライブが始まる一時間前、控室にある小さなソファに、俺はひとりで座っていた。

深く息を吸う。
胸の奥がざらつく。
そのざらつきが喉の方へせり上がってきて、吐き出す息まで乱れる。

――また始まった。

手のひらがじっとり汗ばんで、指先が冷える。
控室には雷と千紘が談笑しながらギターやドラムの調整をしていて、紬はセットリストを軽く確認している。

いつも通りの光景だ。

俺以外は。

あいつらは楽しそうでいいよな……と口に出すほど子供じゃない。
分かってる。
悪いのは俺の方だ。

理由は分かっている。

――女が、怖い。

いや、違う。
“女”という曖昧なくくりじゃない。

俺は女性不信だ。
はっきり、自覚している。

ステージに立てば、客席の八割以上が女性。
視線。
期待。
距離の近さ。

全部が、俺の喉を締めつけてくる。

雷みたいにファンへ朗らかに笑うことも、千紘みたいに軽口叩くことも、紬みたいにマイペースに過ごすこともできない。
俺の身体だけが固まり、音も光も遠くなる。

だから、ライブ直前はいつだってこうして呼吸を整える必要がある。

落ち着け。
大丈夫だ。
歌える。
お前はステージでは強い。

何度も心の中で繰り返す。
そうすることで辛うじて“ボーカルの久瀬宏弥”を保つ。

「宏弥、今日も具合悪いって?」

雷の声が聞こえてきて、顔を上げる。

「別に。いつも通り」

「そっか。無理すんなよ? なんかあったら言えよ」

そう言って肩を軽く叩いてくれる。
ありがたいけど……正直、触られるのだって得意じゃない。

「お前ほんと宏弥にだけ扱い優しいよなあ」

千紘が笑いながら茶化す。
雷が苦笑いしつつ、

「宏弥は打たれ弱いんだよ」

「弱くねぇし」

即座に言い返したが、反論には力がなかった。


ライブ中――

ステージに出ると、強いスポットライトが目を刺す。
客席の女性たちの歓声が押し寄せる。

――まただ。

胸がざわつき、視界の端が揺れる。

けど、マイクを握ると別のスイッチが入る。

歌えば、喉が勝手に動く。
身体が、音に同調する。
息が乱れていても、声は出るように鍛えてきた。

曲が進むにつれ、俺は客席の顔を見なくていいポイントだけを探した。
照明の隙間、スピーカーの上、ステージ袖。
そこを交互に見ながら歌うのは、もう癖になっている。

ファンが怖いわけじゃない。
むしろありがたい。
応援してくれる気持ちも、ちゃんと分かってる。

でも――どうしても、視線が刺さる。

その視線の奥にある“期待”が、俺を追い詰める。

だから、ステージ上は戦場みたいだった。


ライブ終演後――

「宏弥、物販どうする?」

紬が声をかけてきたが、俺は短く答える。

「……出ない」

「今日も?」

「無理」

「そっかぁ…まあ無理すんなよ。ファンには俺らから言っとく」

メンバーには悪いと思っている。
物販はファンと直接触れ合う大事な時間だ。
俺だけ逃げるように帰る形になっているのは、事実だ。

そのせいで――
“宏弥は愛想がない”
“ファン嫌いなんじゃない?”

そんな噂が回ってることも知ってる。

けど、無理なものは無理なんだ。

笑顔を作る余裕なんて、ライブが終わった瞬間の俺にはない。

だからその日も、メンバーが物販に向かうのを見届けると、俺はさっさと裏口から出た。


夜風が熱のこもった身体に当たり、少しだけ呼吸が楽になる。
けれど足の震えは止まらない。

「……は……っ……」

ビルの影の、薄暗い路地裏まで来たところで、壁を押さえる。
喉が焼けるようだ。

わかってる。

これはパニックに近い。

ライブが嫌いなわけじゃない。
歌うことが嫌いなわけでもない。

ただ――ステージに立つと過去の記憶がうずいて、身体が勝手に反応してしまう。

深く、深く息を吸う。
だけど胸が余計に痛む。

そこへ――声がした。

「宏弥くん……?」

背筋が跳ねた。

誰だ。
なんで俺の名前を……。

顔を上げると、路地の入口にひとりの女が立っていた。
街灯に照らされて、髪が柔らかく光っている。

客席にいた……?
いや、覚えてるわけない。

でも、たぶんファンの一人なんだろう。

こういうときに限って誰かに見つかる。

最悪だ。

俺はすぐに声を張ろうとして――けれど呼吸が乱れた声しか出なかった。

「……来んな」

それ以上近づかれたくなかった。
今の俺は誰にも見られたくない。
弱ってる自分なんて、見せたくない。

女は一歩だけ踏み込んできた。
その気配に恐怖が走る。

やめろ。
来るな。
近寄らないでくれ。

でも――女は、怯えるどころか眉を下げて俺を見ていた。

“助けようとしてる”って、表情で分かった。

そのやさしさが、余計に苦しい。

優しくしないでくれ。
俺はそういうのを信じられない。
信じたくても、怖い。

喉が痛い。
頭も回らない。

俺は壁に額を押しつけて、搾り出すように言った。

「……頼む……ほっといてくれ……」

それが精一杯だった。

逃げ場のない路地裏で、俺は息の仕方すら忘れていた。
ただのひとりのファンにすら怯える、自分の弱さを噛みしめながら。

――このとき。
この“甘党の女”と出会ったことで、俺の世界が徐々に変わっていくなんて。

そんなこと、思いもしなかった。
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