ナースマン先生の恋は暑苦しい
2 ナースマン先生は仕事人
真帆が最初に覚えたことは、この看護学校では朝が早いという事実だった。
事務職員の始業は八時半だが、その時刻にはもう学生が廊下を行き交い、教員たちは職員室で学生に対応している。
(……思った以上に、現場だ)
真帆はパソコンをにらんで、始まったばかりの新しい業務に目を走らせた。
予算元との照会対応、消耗品の購入、奨学金申請、学生対応……今までやったことがある仕事もあれば、初めて扱うものもある。
年度初めのこの時期、やることは山ほどあって、体調管理も難しい。
「おはようございます、高瀬さん!」
そんな平時の数倍に膨れ上がった書類置き場の向こうから、元気な声が飛んできた。
(いつ聞いても元気な声だな……鍛え方が違うのかな)
ここは教員が十人ほどで、真帆のような事務職員は上司も含めてたったの二人だ。
ただ、自分はこの職場で特異なわけではなく、特別なのはこの人だけだ。
「……おはようございます、朝倉先生」
視線を向けると、やはりそこには半袖の白衣姿があった。
(もうだまされないぞ。この服装だって、決して多数派じゃない)
外は曇りで、朝の空気はまだ冷たい。そして今日半袖白衣なのは彼だけだった。
「寒くないんですか?」
思わず疑問を口にすると、朝倉はきょとんとした顔をしてから、にっと笑った。
「もう春ですよ。動けばすぐ暑くなりますって!」
「……そうですか」
(看護師さんって、そういう生き物だっただろうか)
内心で首をかしげつつ書類に戻ろうとした、そのときだった。
「すみません!」
職員室の方から、受話器を握った一番若い先生が声を上げる。
「病院から電話です。手術室で気分が悪くなった子がいて……!」
朝倉は一瞬で張りつめた空気をまとって、素早く振り向く。
「わかった! 迎えに行って来ます! 木下先生は校長先生に伝えてください」
そう言い残して、朝倉はさっと職員室を出て行った。
(……速い)
半袖の背中があっという間に見えなくなり、真帆は目を瞬いた。
学校にはすぐ近くに実習先の病院がある。そこでよく体調を崩す学生がいるらしいけれど、真帆は来たばかりで初めてのことだった。
「だ、大丈夫なんでしょうか?」
うろたえた真帆だったが、職員室の先生たちはそんな真帆に静かに言う。
「朝倉先生は病棟経験も長いナースマンだよ。応援が必要なら呼ぶはず。落ち着きなさい、高瀬さん」
学校とはいえ、ここは医療機関に陸続きのところなのだ。それを実際に目にすることになって、真帆はごくんと息を呑んだ。
そわそわしながら朝倉からの連絡を待っていると、まもなく教員用の携帯から電話があった。
『高瀬さん、学生と合流しました。これから伝えること、校長先生に報告お願いします』
「は、はい。どうぞ」
『手術を見て気分が悪くなったようです。怪我や熱はありませんが、今日は帰らせた方がいいと判断しましたので、先ほど保護者を呼びました。学生自身は病院で寝かせてもらっています。保護者が到着したらまた連絡します』
普段のからりと明るい声が嘘のように、淡々と必要事項を告げてくる。
真帆は連絡事項と学生の名前をメモして、急いで校長先生のところに向かった。
それから病院に届け物の用事があって、真帆は書類を抱えて病院に向かった。
病院の事務室には休憩室が隣接していて、そこでガラス越しに朝倉と生徒の姿を見かけた。
生徒は少し泣いているようだった。それに、朝倉は過度に感傷的にもならずに声をかけていた。
「大丈夫。先生も気分悪くなって手術室出されたことあるよ。みんな通る道なんだ」
でも穏やかで低い声は、導く人としての優しさがにじんでいた。
「今日はうまくいかなかった。でも次はもっとうまくいく。学校も、先生たちもサポートするから、心配いらない」
ちらっとのぞいたその表情は落ち着いていて、ともすれば楽観的に過ぎるような朝倉とは別人のようだった。
(……先生だ)
それは当たり前なのに、真帆にはなぜか新鮮だった。
学生が保護者の迎えで帰った後、真帆は事務室でまだ収まらない緊張と共に仕事をしていた。
「高瀬さん、先ほどはありがとうございました!」
元気いっぱいの声を聞いて、顔を上げる。
「……高瀬さん?」
ふと心配そうに声をかけられて、真帆は眉を寄せる。
真帆はそろそろと朝倉を見上げて、心配の混じる声で言った。
「先生たちは大変ですね。私は……今日みたいなことは初めてで、びっくりしました」
「はは! 無事だったんですから万事オーケイですよ。高瀬さんもいい仕事ぶりでした!」
その大きな声も言い方もまたいつも通りで、真帆は小さく息を吐いた。
朝倉は白衣の袖――半袖――で額をぬぐって、ちょっと声を落とす。
「一仕事終えたところで……昼飯でも一緒に」
「……さっきの声、違いましたね」
真帆がそう言うと、朝倉は少しだけ照れたように笑った。
「え、何がですか?」
「はい。落ち着いてて……その、先生らしかったです」
一瞬、朝倉は固まったように見えた。
それから、ゆっくりと口角を上げた。
「それ、いい意味ですか?」
「……たぶん」
真帆は視線を逸らしながら、そう答えた。
朝倉はからっと笑って胸を張る。
「じゃあ、それで十分です!」
(十分なのか)
そう思いながらも、なぜか悪い気はしなかった。
午前の仕事を終えて廊下に出ると、空は少しだけ明るくなっていた。
(この学校も、先生たちも……)
まだわからないことばかりだけど、わかったこともある。
(半袖の理由は、仕事してるとすぐ暑くなるから、か)
真帆はそんな結論をそっと胸の中にしまって、ちょっとだけ笑った。
事務職員の始業は八時半だが、その時刻にはもう学生が廊下を行き交い、教員たちは職員室で学生に対応している。
(……思った以上に、現場だ)
真帆はパソコンをにらんで、始まったばかりの新しい業務に目を走らせた。
予算元との照会対応、消耗品の購入、奨学金申請、学生対応……今までやったことがある仕事もあれば、初めて扱うものもある。
年度初めのこの時期、やることは山ほどあって、体調管理も難しい。
「おはようございます、高瀬さん!」
そんな平時の数倍に膨れ上がった書類置き場の向こうから、元気な声が飛んできた。
(いつ聞いても元気な声だな……鍛え方が違うのかな)
ここは教員が十人ほどで、真帆のような事務職員は上司も含めてたったの二人だ。
ただ、自分はこの職場で特異なわけではなく、特別なのはこの人だけだ。
「……おはようございます、朝倉先生」
視線を向けると、やはりそこには半袖の白衣姿があった。
(もうだまされないぞ。この服装だって、決して多数派じゃない)
外は曇りで、朝の空気はまだ冷たい。そして今日半袖白衣なのは彼だけだった。
「寒くないんですか?」
思わず疑問を口にすると、朝倉はきょとんとした顔をしてから、にっと笑った。
「もう春ですよ。動けばすぐ暑くなりますって!」
「……そうですか」
(看護師さんって、そういう生き物だっただろうか)
内心で首をかしげつつ書類に戻ろうとした、そのときだった。
「すみません!」
職員室の方から、受話器を握った一番若い先生が声を上げる。
「病院から電話です。手術室で気分が悪くなった子がいて……!」
朝倉は一瞬で張りつめた空気をまとって、素早く振り向く。
「わかった! 迎えに行って来ます! 木下先生は校長先生に伝えてください」
そう言い残して、朝倉はさっと職員室を出て行った。
(……速い)
半袖の背中があっという間に見えなくなり、真帆は目を瞬いた。
学校にはすぐ近くに実習先の病院がある。そこでよく体調を崩す学生がいるらしいけれど、真帆は来たばかりで初めてのことだった。
「だ、大丈夫なんでしょうか?」
うろたえた真帆だったが、職員室の先生たちはそんな真帆に静かに言う。
「朝倉先生は病棟経験も長いナースマンだよ。応援が必要なら呼ぶはず。落ち着きなさい、高瀬さん」
学校とはいえ、ここは医療機関に陸続きのところなのだ。それを実際に目にすることになって、真帆はごくんと息を呑んだ。
そわそわしながら朝倉からの連絡を待っていると、まもなく教員用の携帯から電話があった。
『高瀬さん、学生と合流しました。これから伝えること、校長先生に報告お願いします』
「は、はい。どうぞ」
『手術を見て気分が悪くなったようです。怪我や熱はありませんが、今日は帰らせた方がいいと判断しましたので、先ほど保護者を呼びました。学生自身は病院で寝かせてもらっています。保護者が到着したらまた連絡します』
普段のからりと明るい声が嘘のように、淡々と必要事項を告げてくる。
真帆は連絡事項と学生の名前をメモして、急いで校長先生のところに向かった。
それから病院に届け物の用事があって、真帆は書類を抱えて病院に向かった。
病院の事務室には休憩室が隣接していて、そこでガラス越しに朝倉と生徒の姿を見かけた。
生徒は少し泣いているようだった。それに、朝倉は過度に感傷的にもならずに声をかけていた。
「大丈夫。先生も気分悪くなって手術室出されたことあるよ。みんな通る道なんだ」
でも穏やかで低い声は、導く人としての優しさがにじんでいた。
「今日はうまくいかなかった。でも次はもっとうまくいく。学校も、先生たちもサポートするから、心配いらない」
ちらっとのぞいたその表情は落ち着いていて、ともすれば楽観的に過ぎるような朝倉とは別人のようだった。
(……先生だ)
それは当たり前なのに、真帆にはなぜか新鮮だった。
学生が保護者の迎えで帰った後、真帆は事務室でまだ収まらない緊張と共に仕事をしていた。
「高瀬さん、先ほどはありがとうございました!」
元気いっぱいの声を聞いて、顔を上げる。
「……高瀬さん?」
ふと心配そうに声をかけられて、真帆は眉を寄せる。
真帆はそろそろと朝倉を見上げて、心配の混じる声で言った。
「先生たちは大変ですね。私は……今日みたいなことは初めてで、びっくりしました」
「はは! 無事だったんですから万事オーケイですよ。高瀬さんもいい仕事ぶりでした!」
その大きな声も言い方もまたいつも通りで、真帆は小さく息を吐いた。
朝倉は白衣の袖――半袖――で額をぬぐって、ちょっと声を落とす。
「一仕事終えたところで……昼飯でも一緒に」
「……さっきの声、違いましたね」
真帆がそう言うと、朝倉は少しだけ照れたように笑った。
「え、何がですか?」
「はい。落ち着いてて……その、先生らしかったです」
一瞬、朝倉は固まったように見えた。
それから、ゆっくりと口角を上げた。
「それ、いい意味ですか?」
「……たぶん」
真帆は視線を逸らしながら、そう答えた。
朝倉はからっと笑って胸を張る。
「じゃあ、それで十分です!」
(十分なのか)
そう思いながらも、なぜか悪い気はしなかった。
午前の仕事を終えて廊下に出ると、空は少しだけ明るくなっていた。
(この学校も、先生たちも……)
まだわからないことばかりだけど、わかったこともある。
(半袖の理由は、仕事してるとすぐ暑くなるから、か)
真帆はそんな結論をそっと胸の中にしまって、ちょっとだけ笑った。