ナースマン先生の恋は暑苦しい
3 ナースマン先生の得手不得手
真帆はずっと事務員の中で働いて来たので、看護師であり先生に囲まれて仕事するということは今までなかった。
(職種が違うってどんな感じだろうって、思ってたけど)
ある日の真帆も、それをありありと目にすることになった。
「高瀬さん……」
午前中の事務室、朝の慌ただしさが片付いてほっとしている頃だった。
紅茶でも飲んで一息つこうかと思っていた真帆のもとへ、珍しく元気のない声が近づいてくる。
顔を上げると、そこには半袖白衣の朝倉が立っていた。
ただし肩はしゅんと落ちていて、手には分厚い紙の束を持っている。
「どうされましたか」
「……助けてください」
子犬がすがるような目をしている彼に、真帆はすべてを察した。
「何の手続きでしょうか」
「住居手当をもらいたくて……でもさっぱりわからないです」
朝倉は書類の束をそろそろと見せる。
どうやら申請書や記載例や添付文書の類を一気に印刷して、完全に迷子になったらしい。
「そもそも」
朝倉は椅子に座ったものの、居心地悪そうに肩を叩く。
「俺、病院で働いてた頃は椅子に座るってこと、ほとんどなかったんですよ」
「でしょうね」
真帆は中途半端な慰めは無用と、即答してうなずいた。朝倉は力強く続ける。
「病棟では、基本立ちっぱなしか動きっぱなしです!」
「今もそうですね」
半袖で廊下を行き来する姿は、決して病院時代と変わっているとは思えない。
「これ……」
朝倉は大型犬がぎゅうっと顔を中心に寄せる感じの表情で、申請書を指差す。
「どこから書けばいいんですか?」
「上からです」
「この欄は?」
「該当する場合のみです」
「じゃあこれは?」
「該当しません」
「え、なんでわかったんですか?」
真帆はさっと全体に目を通してから、ぺらぺらと書類をめくる。
「初見の場合はフローチャートから入りましょう。まず自分が手当をもらえる対象か確認して、それから記入例を見比べながら……」
手続きを一つずつ説明し、時に記入例を振り返り、不要な書類を省いていく。
十分ほど経ったころ、どうにか申請書とそろえるべきものに丸がついた書類ができていた。
「……できた」
朝倉は信じられないという顔で、まじまじと書類を光にかざす。
「すごい! こんな複雑な書類、俺は一ミリもわからなかったのに!」
真剣な眼差しで見つめられ、真帆は少し居心地が悪くなる。
「事務員はみんなできますよ」
「職人の技ですね!」
(そんな輝く目で見ないでほしい。……事務員は代わりがたくさんいるんだから)
ふと胸の奥の傷が痛んで、真帆は目を逸らす。
そう、自分は大勢の中の一人だった。何も特別な技術も資格も持っていない。
――……くんの方が仕事早いもんな。
その中で競わされ、敗れてきただけの人間だ。
でも朝倉は、そんな真帆の陰をすくうようにからっと笑った。
「高瀬さんはすごいんです! できることはおもいきり誇ったらいいじゃないですか!」
……一瞬、光に照らされたように朝倉の顔を見てしまった。
彼のように職種が違う人から見て「出来る」だけだとは知っていたけど、悪い気はしなかった。
朝倉は無事に書類をまとめると、晴れやかな顔で立ち上がった。
「事務は高瀬さんにお任せして、俺は現場行ってきます!」
「お気をつけて」
そう言ったところで、真帆は自分を見る朝倉の目が鋭く変わったのを感じた。
「……何かついていますか」
朝倉は一歩近づき、少しだけ声を落とす。
「高瀬さん、体調悪くないですか?」
「え?」
「顔色、朝より悪いです。声も少しおかしいです」
言われて初めて、真帆は昨日から咳が出ているのを思い出した。
(……確かに、ちょっと悪化してるかも)
忙しさにかまけて気づかないふりをしていただけで、あんまり良くない。
「大丈夫です。葛根湯でも飲みます」
「だめです」
ところが朝倉はきっぱりと言い切って跳ね返した。
「症状が出てるなら、もう葛根湯効きません」
「……そうでしょうか」
「咳、出てるでしょう?」
「……はい」
「じゃあ受診しましょう」
朝倉は白衣のポケットからメモ帳を取り出す。
「この市販薬、効きます。あと、駅前の内科。夕方までやってます」
さらさらと書かれた文字は、事務書類よりよほど迷いがない。
その距離がちょっと近すぎるのは、いつものことだったけど。
「今日はもう帰ってください」
「え、でも」
「高瀬さんが倒れたら、学校の動脈止まるのと同じです」
「……動脈」
「それ、学校的に大事件です」
妙に説得力をこめて、朝倉は断固として言った。
「体調悪い人は、即帰す。これ、医療関係者の基本です」
朝倉はそう言い切ってから、少しだけ笑う。
「俺、ナースマンで先生なんで」
その言葉に、真帆は思わず息を吐いた。
「……まったくです」
事務仕事は得意で、病気には疎い自分。
事務仕事は苦手で、病気に関してはスペシャリストの彼。
(私も、得意なところでがんばれば……いいか)
その潔さを見習おうと、真帆は小さく笑った。
「では、お言葉に甘えて。今日は早めに上がります」
「はい、お大事に。お疲れさまでした!」
そう言って見送る姿は、また元気いっぱいのナースマン先生だった。
(職種が違うってどんな感じだろうって、思ってたけど)
ある日の真帆も、それをありありと目にすることになった。
「高瀬さん……」
午前中の事務室、朝の慌ただしさが片付いてほっとしている頃だった。
紅茶でも飲んで一息つこうかと思っていた真帆のもとへ、珍しく元気のない声が近づいてくる。
顔を上げると、そこには半袖白衣の朝倉が立っていた。
ただし肩はしゅんと落ちていて、手には分厚い紙の束を持っている。
「どうされましたか」
「……助けてください」
子犬がすがるような目をしている彼に、真帆はすべてを察した。
「何の手続きでしょうか」
「住居手当をもらいたくて……でもさっぱりわからないです」
朝倉は書類の束をそろそろと見せる。
どうやら申請書や記載例や添付文書の類を一気に印刷して、完全に迷子になったらしい。
「そもそも」
朝倉は椅子に座ったものの、居心地悪そうに肩を叩く。
「俺、病院で働いてた頃は椅子に座るってこと、ほとんどなかったんですよ」
「でしょうね」
真帆は中途半端な慰めは無用と、即答してうなずいた。朝倉は力強く続ける。
「病棟では、基本立ちっぱなしか動きっぱなしです!」
「今もそうですね」
半袖で廊下を行き来する姿は、決して病院時代と変わっているとは思えない。
「これ……」
朝倉は大型犬がぎゅうっと顔を中心に寄せる感じの表情で、申請書を指差す。
「どこから書けばいいんですか?」
「上からです」
「この欄は?」
「該当する場合のみです」
「じゃあこれは?」
「該当しません」
「え、なんでわかったんですか?」
真帆はさっと全体に目を通してから、ぺらぺらと書類をめくる。
「初見の場合はフローチャートから入りましょう。まず自分が手当をもらえる対象か確認して、それから記入例を見比べながら……」
手続きを一つずつ説明し、時に記入例を振り返り、不要な書類を省いていく。
十分ほど経ったころ、どうにか申請書とそろえるべきものに丸がついた書類ができていた。
「……できた」
朝倉は信じられないという顔で、まじまじと書類を光にかざす。
「すごい! こんな複雑な書類、俺は一ミリもわからなかったのに!」
真剣な眼差しで見つめられ、真帆は少し居心地が悪くなる。
「事務員はみんなできますよ」
「職人の技ですね!」
(そんな輝く目で見ないでほしい。……事務員は代わりがたくさんいるんだから)
ふと胸の奥の傷が痛んで、真帆は目を逸らす。
そう、自分は大勢の中の一人だった。何も特別な技術も資格も持っていない。
――……くんの方が仕事早いもんな。
その中で競わされ、敗れてきただけの人間だ。
でも朝倉は、そんな真帆の陰をすくうようにからっと笑った。
「高瀬さんはすごいんです! できることはおもいきり誇ったらいいじゃないですか!」
……一瞬、光に照らされたように朝倉の顔を見てしまった。
彼のように職種が違う人から見て「出来る」だけだとは知っていたけど、悪い気はしなかった。
朝倉は無事に書類をまとめると、晴れやかな顔で立ち上がった。
「事務は高瀬さんにお任せして、俺は現場行ってきます!」
「お気をつけて」
そう言ったところで、真帆は自分を見る朝倉の目が鋭く変わったのを感じた。
「……何かついていますか」
朝倉は一歩近づき、少しだけ声を落とす。
「高瀬さん、体調悪くないですか?」
「え?」
「顔色、朝より悪いです。声も少しおかしいです」
言われて初めて、真帆は昨日から咳が出ているのを思い出した。
(……確かに、ちょっと悪化してるかも)
忙しさにかまけて気づかないふりをしていただけで、あんまり良くない。
「大丈夫です。葛根湯でも飲みます」
「だめです」
ところが朝倉はきっぱりと言い切って跳ね返した。
「症状が出てるなら、もう葛根湯効きません」
「……そうでしょうか」
「咳、出てるでしょう?」
「……はい」
「じゃあ受診しましょう」
朝倉は白衣のポケットからメモ帳を取り出す。
「この市販薬、効きます。あと、駅前の内科。夕方までやってます」
さらさらと書かれた文字は、事務書類よりよほど迷いがない。
その距離がちょっと近すぎるのは、いつものことだったけど。
「今日はもう帰ってください」
「え、でも」
「高瀬さんが倒れたら、学校の動脈止まるのと同じです」
「……動脈」
「それ、学校的に大事件です」
妙に説得力をこめて、朝倉は断固として言った。
「体調悪い人は、即帰す。これ、医療関係者の基本です」
朝倉はそう言い切ってから、少しだけ笑う。
「俺、ナースマンで先生なんで」
その言葉に、真帆は思わず息を吐いた。
「……まったくです」
事務仕事は得意で、病気には疎い自分。
事務仕事は苦手で、病気に関してはスペシャリストの彼。
(私も、得意なところでがんばれば……いいか)
その潔さを見習おうと、真帆は小さく笑った。
「では、お言葉に甘えて。今日は早めに上がります」
「はい、お大事に。お疲れさまでした!」
そう言って見送る姿は、また元気いっぱいのナースマン先生だった。