さよならの代わりに授かった宝物

第二章:甘い蜜の裏側

大学近くにある、勇気のマンション。
洗練されたモノトーンで統一された室内は、萌香にとって紛れもなく「愛の巣」だった。

大学卒業を待たずに始まった同棲生活。
勇気は多忙な仕事の合間を縫い、惜しみない優しさと愛情を萌香に注いでくれていた。

「ただいま、萌香。……今日も、いい子にしていたかな?」

深夜、帰宅した勇気が背後から彼女を抱きしめる。
低く落ち着いた声が首筋を震わせ、萌香は思わず甘い溜息を漏らした。逞しい腕に包まれるたび、「守られている」という実感が胸いっぱいに広がる。

「おかえりなさい、勇気さん。お仕事、お疲れ様です」

「ああ。……明日、いよいよ婚姻届を出しに行こう。準備は、できているね?」

勇気はそう言って、萌香の髪にそっと唇を寄せた。
慈しみに満ちた仕草に、萌香は頬を赤らめ、彼の胸に顔を埋める。

「はい……。私、夢みたいです。勇気さんの奥様になれるなんて」

勇気は萌香の頭を撫で、わずかに目を細めた。
その瞳に宿る色が、愛ではなく「目的を達成しようとする者の冷たい光」であることに、萌香はまだ気づかない。

――異変を感じたのは、その数時間後だった。

深夜二時。
寝苦しさに目を覚ました萌香は、隣に勇気の気配がないことに気づく。

リビングから、微かに話し声が漏れていた。

(こんな時間に……お仕事の電話かな)

労いの言葉をかけようと、寝室のドアを数センチだけ開けた、その瞬間。

「……ああ、手配は済んだ。戸籍上の『妻』という盾があれば、奴らも俺を疑わない」

耳に飛び込んできたのは、これまで一度も聞いたことのない、氷のように冷たい勇気の声だった。

「愛?……馬鹿なことを言うな。ただの女子大生だ。世間知らずで、扱いやすい。適当に優しくしていれば、疑いもせず俺を信じる」

――ドクン、と心臓が跳ねる。

一気に血の気が引き、指先が冷たくなった。

「潜入を悟られないための便宜上の婚姻だ。任務が終われば、相応の慰謝料を払って放り出せばいい。……入籍は明日だ。これで、ようやく捜査が本格的に動ける」

通話が切れる音が、萌香の心に致命的な一撃を与えた。

鏡越しに映る勇気の横顔には、昼間の優しさは微塵もない。
そこにあるのは、獲物を追い詰める――公安警察としての、冷酷な狩人の顔だった。

萌香は咄嗟に口を押さえ、声を殺したまま床にへたり込む。

昨日交わした甘いキスも、耳元で囁かれた結婚の約束も、すべては任務を完璧に遂行するための「演出」に過ぎなかったのだ。

(私……ただの、道具だったんだ……)

その時、下腹部に小さく、しかし確かな違和感が走る。
まだ誰にも告げていない――今日、確信したばかりの新しい命。

萌香は震える手で、そっと自分の腹部を抱きしめた。

この冷徹な男に、この子の存在を知られてはいけない。
彼の「仕事の道具」の一部にされてしまう。

萌香は暗闇の中、音を立てないよう静かに立ち上がった。

明日、幸せな花嫁になるはずだった自分を、ここで殺して。
愛という名の呪縛から逃れるために。

クローゼットの奥から、小さなカバンを取り出す――。
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