さよならの代わりに授かった宝物

第三章:凍りついた再会

あれから、二年半。

海沿いの静かな町にある、小さなベーカリー。
萌香はここで名前を変え、過去を切り捨てるようにして生きていた。

「ママ、おなかすいた!」

「ふふ、もうすぐ焼き上がるわよ。蓮(れん)、お行儀よくして待っててね」

勇気によく似た、意志の強さを宿す瞳を持つ息子・蓮。
あの日、地獄から連れ出したこの子は、萌香にとって生きる理由そのものだった。

だが――
その穏やかな日常は、あまりにも唐突に終わりを告げる。

カランカラン、と軽やかなドアベルの音。

昼下がりの客を迎えようと、いつものように柔らかな微笑みを浮かべて顔を上げた、その瞬間。

「……見つけたぞ」

低く、深く、地を這うような声。

店内を満たしていた小麦の甘い香りが、一瞬で凍りついた。

入口に立っていたのは、端正な三つ揃えのスーツを完璧に着こなす男。
かつてよりも鋭さを増した、冷徹な美貌。

――高畑、勇気。

萌香の手から、トングが音を立てて床に落ちた。

「ゆ……勇気、さん……」

「二年六ヶ月と十五日」

勇気は淡々と告げる。

「……随分と長いかくれんぼだったな、萌香」

獲物を追い詰めるような歩調で、彼はゆっくりと近づいてくる。
その周囲だけ空気が薄くなるような、圧倒的な威圧感。

萌香は恐怖に足を縫い止められ、呼吸の仕方すら忘れていた。

「なぜ……ここに……っ」

「言ったはずだ。俺についてこいと」

低く、断定的な声。

「……契約を途中で放り出すのは、感心しないな」

カウンター越しに、勇気は強引に萌香の顎を指先で掬い上げ、逃げ道を塞ぐ。
その瞳に、かつての偽りの優しさはない。あるのは、狂おしいほどの独占欲と、底冷えする執着の炎。

その時。

「……ママ?」

カウンターの下から、不安そうに蓮が顔を出した。

勇気の視線が、ゆっくりと足元の幼い子どもへと向けられる。

――まずい。

萌香の心臓が、これまでで一番激しく脈打った。
この子の父親が、目の前の男だと気づかれてしまったら。

勇気は蓮を見つめたまま、わずかに眉を寄せる。

自分と生き写しの顔立ち。
だが彼は、冷酷な笑みを浮かべて吐き捨てた。

「……ほう。男を作って、ガキまでこさえたか」

氷のような声。

「俺から逃げて、ずいぶんと奔放にやっていたらしい」

勇気は、蓮が自分の息子である可能性など微塵も考えていない。
ただ、自分のものであったはずの萌香に“他人の印”がついている――その事実(という誤解)に、どす黒い嫉妬を滾らせているだけだった。

「いいだろう。その子が誰の子供だろうと、今の俺には関係ない」

勇気は萌香の耳元に顔を寄せ、熱を帯びた吐息とともに、冷酷な宣告を突きつける。

「今から君を連れて帰る。今日から君は、再び俺の『妻』だ」

そして、囁くように続けた。

「……二度と逃げられないように。今度は、本物の手錠が必要か?」

二年半の歳月を経て。
偽りの愛は、もはや逃げ場のない――執愛へと変貌していた。
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