窓明かりの群れに揺れる

38.遠回りの果てに

 どれくらい歩いたのか、わからない。

 信号をいくつも渡って、
 細い路地に入り、
 また大きな通りに戻って。

 方向感覚も、時間の感覚も、
 途中でどこかに置いてきてしまった
 ようだった。
 自分に問いかけても、答えは返ってこない。

 ただ、
 胸の奥の痛みから少しでも逃げたくて、
 足だけが前へ前へと動いている。

 たくさんの景色を通り過ぎて――
 ふと顔を上げたとき、
 目の前に立っていたのは、見覚えのある
 マンションのエントランスだった。

   (……え?)

 胸の奥が、
 ぎゅっと掴まれたように苦しくなる。

 ここは、
 あのとき――
 初めて東京に来て、
 緊張と不安でいっぱいだった自分を
 迎えてくれた場所。

 そして、
 玄関先で、初めてキスをして、
 混乱したまま飛び出してしまった場所。

 (……来たくなんて、なかったのに)

 頭ではそう思っていたはずなのに、
 足は、迷わずこの建物を選んでいた。

 ここに来れば、
 誰かが、自分の話を聞いてくれる気がした。
 ここに来れば、
 あの時みたいに、
 ただ「大丈夫だ」と言ってくれる気がした。

 でも――
  (やっぱり、帰ろう)

 エントランス前で立ち尽くしたまま、
 春奈はゆっくりと(きびす)を返した。

 一歩、歩き出そうとしたその瞬間――

  「……春奈?」

 背中から、
 聞き慣れた声が降ってきた。

 振り返ると、
 マンションの入口から出てきた弘樹が、
 驚いたようにこちらを見ていた。

  「え……」

 見られたくない、と思った。
 でも、もう遅かった。

 会社のときよりも、
 ずっと柔らかい服装。

 仕事終わりからそのまま帰ってきたような
 ラフなシャツ姿。

 その顔を見た瞬間――
 堰き止めていたものが、一気に溢れた。

  「……ひっ」

 視界が、ぼやける。

 胸の奥から何かがこみ上げてきて、
 喉が熱くなる。

  「春奈?」

 もう一度呼ばれた瞬間、
 声にならない声が漏れた。

  「――っ、ひろ、きくん……」

 言葉にならない呼びかけとともに、
 春奈は、ふらりと前に進んだ。

 次の瞬間。
 自分でも信じられないくらい自然に、
 弘樹の胸へ飛び込んでいた。

 腕を回すというより、
 しがみつくように抱きつく。

 胸元に顔を押し付けたまま、
 我慢していた涙が一気に溢れた。

  「っ……ひっ……」

 言葉にならない、
 嗚咽だけが混ざり合う。
 弘樹は、
 一瞬だけ戸惑ったように息を呑んだ。
 けれど、すぐに
 そっと、春奈の背中に手を添えた。

  「……大丈夫。
   今は、何も喋らなくていい」

 低くて、落ち着いた声。
 その声を聞いた瞬間、
 春奈の中で、
  何かがぷつんと切れた。

 「ひっ……
   ひろきくん……っ」

 涙が止まらない。
 頬も、目元も、
 全部ぐしゃぐしゃになっていく。

 それでも弘樹は、
 強く抱きしめることも、
 離すこともせず、
 ただ、
 泣きじゃくる春奈を、
 黙って受け止め続けていた。
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