これはもはや事故です!
 部屋の引き渡しは、驚くほどあっさりしていた。
 担当の人に簡単な確認を受けて、書類にサインをして、最後に鍵を差し出す。

「お世話になりました」

 自分の声が、思ったより落ち着いていて、美羽は少しだけ驚いた。

 マンションの外に出ると夕方の風が頬に触れた。
 少しだけ冷たくて、現実的で、それが、かえって心地いい。

 美羽は、横に居る磯崎の袖をそっと掴む。

「……寒くないか?」

「はい」

「無事に済んでよかったな」

「誠さんが付き添ってくれたから、退去費用ぼられずに済みました」

 そう言って、美羽はふふっと笑う。
 それだけのやりとり。
 でも、胸の奥で、きちんと区切りがついたのを感じる。

 磯崎は、少し進んで、立ち止まる。

「……帰ろう」

 行き先を確認する言葉じゃなかった。
 選択肢を与えるでもない。

 当たり前のように、自然に出た一言。
 美羽は、その背中を見つめてから、小さく頷いた。

「……はい」

 夕日を背に受けた二人の影が、並んで地面に伸びている。
 その影は、自然に寄り添って見えた。


 
 しばらくして、見慣れた建物の前に着く。
 磯崎の部屋。

 鍵を取り出す音がして、
 ドアが開く。

 ――カチャ。

 室内から、静かな空気が流れ出てくる。
 美羽は、一瞬だけ、足を止めた。
 ここは、癒してくれた場所。

「どうした」

「……いえ」

 首を振って、一歩踏み出す。

 玄関に入ると、靴箱、壁、照明。
 もう、見慣れたはずの景色。

 それなのに、今日だけは、少し違って見えた。
 “戻ってきた”という感覚。

 磯崎が、ごく自然に言う。

「今日は寒かったな」

「はい」

 それだけの会話なのに、
 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

 美羽は、靴を揃えながら、静かに思った。

 (もう、帰る部屋はひとつだ)
< 129 / 132 >

この作品をシェア

pagetop