これはもはや事故です!
 引っ越し当日は、思っていたよりも静かに始まった。

 業者が運び込むダンボールの音が、玄関に短く響く。
 大きな家具はほとんどなく、ベッドとテーブル、タンス代わりのカラーボックスは処分した。
 持って行く荷物の大半は、服と日用品だけだった。

 窓の外が、夕焼け色に染まっている。
 低くなった陽が、部屋の奥まで差し込み、何もなくなった床を、ゆっくりと照らしていた。

 家具の跡。
 ベッドがあった場所。
 テーブルを置いていた角。

 どれも、もうそこにはないのに、光だけが、名残のように残っている。

(……夕方、好きだったな)

 休みの日、電気をつける前のこの時間。
 外の音が遠くて、誰にも邪魔されない短い静けさ。

 寂しかった。
 正直に言えば、それは否定できない。

 誰かの声が欲しくて、テレビをつけっぱなしにして眠った夜もある。

 それでも。

(……逃げなかった)

 この部屋で、美羽は一人で暮らした。
 泣きながらでも、不安を抱えながらでも。

 食べて、働いて、眠って。
 誰にも頼らず、誰にも甘えず、それでも、生きてきた。

 ここは、孤独だった場所で、同時に、自分の居場所を必死に作っていた場所だった。

 夕日が、壁をゆっくりと移動していく。
 もうすぐ、消える。

 美羽は、深く息を吸った。

(……ありがとう)

 部屋に向かって、心の中でそう言う。

 守ってくれたわけじゃない。
 癒してくれたわけでもない。

 でも、「ひとりで立つための場所」だった。

 部屋が、静かに夕闇に沈む。
 玄関に向かい、靴を履くと最後に一度だけ、振り返った。

「私……頑張ったよね」

 小さく、そう呟いて、今度こそ、ドアを閉めた。

「忘れ物はないか?」

「大丈夫です……」

 鍵をかける音が、短く響く。

 それは、終わりの音で、同時に、美羽にとっての始まりの合図でもあった。
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