これはもはや事故です!

お留守番です。

 朝、事務所に行く磯崎の背中を見送ると、美羽は、細く息を吐き出した。
 部屋に一人っきり、残された空気がふっと静かになる。

(……行っちゃった)

 用意してくれた車いすに、どうにか腰を下ろし、ゆっくりハンドルを押した。

「……わっ、動いた……」

 つい声が漏れる。
 まだ不慣れだけど、思ったよりスムーズに動く。
 磯崎のマンションのリビングは、無駄がなくて清潔で広い。
 車いすがするすると進んでいく。

 もしも、自分の部屋だったらっと、美羽は想像してしまう……。
 狭い1Kの部屋は、ベッドとテーブルを置いたら、床なんてチョットしか見えない。だから、車いすで移動なんて絶対に無理な話だ。

「きっと……イモムシみたいに移動していたんだろうな」

 その映像が浮かぶ。

 床を這って移動する、自分。
 足を引きずり、うめき声をあげながら、冷蔵庫までのたった2メートルを地獄のように進む。

(いや、怖すぎる。てか絶対ムリ……!)

 それに比べて、この家の広々としたリビングは、車いすでもスイスイ動ける。

 キッチンの方へ向かってみる。
 カウンターの下にも、ぶつかるものは何もない。

「……すごい」

 自分の力で、行きたい場所に行ける。
 それだけのことなのに、胸がじんとする。

 テーブルの上を見ると、朝食の食器がそのままになっていた。
 磯崎が慌ただしく出ていった名残だ。

(……洗い物くらいなら)

 一瞬、ためらう。
 勝手なことをして、困らせたらどうしよう。
 でも――。

(……これなら、足に負担もかからない)

 美羽は、ゆっくりとシンクの前に車いすを寄せた。
 ブレーキをかけ、体を少し前に倒す。

 手を伸ばすと、蛇口にちゃんと届く。

「……届いた」

 小さく呟いて、洗剤をスポンジにつける。
 カチャ、と皿が鳴る音が、やけに大きく感じられた。

 ひとつ、またひとつ。
 丁寧に洗って、すすいで、ラックに置く。

(……これくらいなら、迷惑じゃないよね)

 洗い終えたシンクを軽く拭いて、ふう、と息を吐いた。
 少し疲れたけれど、嫌な疲れじゃない。

 視線を上げると、キッチンの向こうに広がるリビング。
 陽の光が差し込んで、静かな午後の気配が満ちている。
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