これはもはや事故です!
 心臓の音が、耳の奥でうるさい。

(……これ以上、近づいたら……戻れなくなる)

 それでも、このまま何もせずに、また一人になるのは、もっと怖かった。
 美羽は、視線を落としたまま、そっと手を伸ばす。

 指先が触れたのは、磯崎のスーツの袖。

 ほんの少し、ためらってから……きゅっと、つかんだ。

 たったそれだけの動作なのに、美羽の胸は壊れそうなくらい、苦しくて、熱い。

「……あの……」

 声が、震える。

「帰らないで……」

 自分でも驚くほど、小さな声だった。

「……一人になるのが……怖くて……」

 掴んだ袖を離したら、きっと、全部終わってしまう気がした。
 だから、美羽は力を抜けなかった。

 磯崎は、一瞬だけ息を止めた。
 視線が、美羽の手に落ちる。
 袖をつかむ細い指先が、かすかに震えているのが見える。

「……美羽さん」

 低く呼ばれて、美羽の肩がびくりと揺れた。

「そんなふうに、怯えながら縋らせるつもりはなかった」

 静かな声だった。

 叱るでも、突き放すでもない。
 ただ、胸の奥をまっすぐに射抜いてくる声。

 磯崎は、美羽の指先に、そっと自分の手を重ねた。

 引き剥がすのではなく、包むように。

「……責任じゃない。君が弱っていたからでも、可哀想だからでもない」

 少し置いて、磯崎は続けた。

「君に会いたかったから……。
 俺は、君と……美羽さんと一緒に居たいんだ」

 夜の廊下に、言葉が静かに落ちる。

 袖を掴んでいた美羽の手は、いつの間にか、磯崎の手の中に、しっかりと握られていた。

 逃げ道は、もうない。
 でも、不思議と怖くなかった。

 夜の静けさの中で、恋を知らなかった胸が、じんわりと、温かく満たされていく。
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