これはもはや事故です!
 近すぎた距離から、ゆっくりと現実に戻ってくる。

「……寒くないか?」

 先に口を開いたのは、磯崎だった。
 少しだけ、いつもより声が低い。

「だ、大丈夫です……」

 そう答えた美羽の声も、どこかぎこちない。

 お互いに目を合わせられず、
 それでも、さっきまで繋がっていた手だけは、離れなかった。

(……キス、したんだ)

 意識すると、頬が一気に熱くなる。

 磯崎は、そっと手を離し、一歩だけ下がった。

「……入ろう。夜風、冷える」

「……はい」

 逃げ道は、もうない。
 でも、不思議と怖くなかった。  
 夜の静けさの中で、恋を知らなかった胸が、じんわりと、温かく満たされていく。  

 狭いワンルームのドアが、静かに閉まる。  
 外の夜気が遮断され、部屋の中には、生活の匂いと微かな緊張だけが残った。  

 自分の部屋を見渡した美羽は、改めて思う。  
 玄関を入って直ぐに簡易キッチン。その奥、6畳ほどの空間には、小さなテーブルとベッド。
 誰かを迎える前提で作られていない部屋。  
 なのに、今は磯崎が、ここにいる。

「……ごめんなさい、こんな部屋で」

 咄嗟に出た言葉は、謝罪だった。  
 すると、磯崎はふっと小さく息を吐いた。

「落ち着くよ。俺も学生の頃、こういう部屋に住んでいたんだ」

 その言い方が、あまりにも自然で、美羽の緊張が少しほぐれる。

「……あの」

「ん?」

「……その……」

 そう言いかけて、言葉が見つからない。

(キスのことを思い出すだけで、頬だけでなく、耳までも熱い。絶対に赤くなってる!)

 磯崎は、一瞬だけ視線を逸らしてから、穏やかに言った。

「……嫌じゃなかった?」

(はわっ、それ聞く?)

 恥ずかしさで答えられずにいると、磯崎がもう一度訊ねた。

「……嫌だったら、言ってほしい」

 確認するような、でも少し不安そうな声。
 美羽は、慌てて首を振った。

「い、嫌じゃないです……っ」

 むしろ、嬉しかった。
 そう言うのは、まだ恥ずかしくてできないけれど。

 磯崎は、ほっとしたように小さく笑った。

「……よかった」

 それだけで、美羽の胸はいっぱいになる。


 
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