浦和探偵 ジン
第十話
「教室のひかり」
 
 雨が強く降る夜だった。商店街は早々にシャッターを下ろし、通りには水の流れる音だけが残っている。浦和探偵事務所の軒下に、ひとりの女性が立っていた。行き場を失ったように、ただ雨を避けている。肩は縮み、唇はかすかに震えている。雨が肌に張り付き、体の芯まで冷えているのが窓越しでも分かった。「……今日も、何も届かなかった」。ぽつりと落ちた声は、雨に溶けて消えた。俺は窓越しに指先で軽くガラスを叩いた。女性が驚いたように顔を上げる。
「入りな。ここは雨宿りくらい、誰にでも許されてる場所だ」
女性は遠慮がちに事務所へ入ってきた。小柄な女性だった。濡れた髪が頬に張り付いている。小学校教諭――れい。タオルを差し出し、俺は珈琲を淹れた。深く煎った豆の香りが、ゆっくりと部屋を温めていく。カップを差し出すと、れいは両手で包むように受け取った。湯気が細く揺れる。それを見つめているうちに、彼女の肩の緊張がようやくほどけた。やがて、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……子どもたちが、私を見てくれないんです」
俺は椅子に浅く腰をかけた。
「いつ頃からだ」
「今年の学期が始まった頃から、だんだんと。最初は一人だったのが……今は教室全体が、私の声に蓋をしているような感じで」
「管理職には言ったか」
「校長は『あとで報告してください』と繰り返すばかりで。具体的な支えも、判断の基準も、示されなくて」
二十五年目のベテラン教師が、二十五年前の新人のように震えていた。朝、机に置いたプリントはちらりと見られるだけ。声をかけても、背中を向けられる。朝食をとらずに登校する子、眠気に負けて机に伏す子、言葉を荒げ周囲をあおる子。嵐の中に立つ彼女に、傘を差し出す者は誰もいなかった。
「……いまの教室には、私の声が響く隙間さえ残っていないんです」
 俺は煙草を一本取り出したが、火はつけなかった。
「響かないのか。それとも、届いてるのに返ってこないのか」
れいは少し考えた。
「……返ってこない、に近いかもしれません」
「なら理由は子どもたちの側だ。声の問題じゃない」
れいの目がわずかに揺れた。
「腹が空いた子には、授業より飯が先だ。怖いものを抱えてる子には、安心が先だ。そこを飛ばして届けようとしても、言葉は届かない」
れいの手が膝の上で静かに握られた。珈琲の湯気が、冷えた目元をゆっくりほどいていく。
 俺は棚から古い紙箱を取り出した。中には使い残しのチョーク、古い指導案、色あせたメモが入っている。
「昔、ここで折れそうになった先生がいた。その人が残していった言葉だ」
一枚のメモをれいの前に置いた。一行だけ書かれていた。『目の前の子は、困っているのか。それとも、困らせているのか』。れいは黙ってその言葉を読んだ。そして、もう一度読んだ。
「……そういうことさ。相手を敵だと思うと、声は武器になる」
「私、戦ってたつもりはなかったんです。ただ、届けたくて」
「届けようとする力が強すぎると、相手には圧になる。特に、何か抱えてる子にはな。教えるのは一度、脇に置け。まずは、見る。それで十分だ」
「見るだけで、いいんですか」
「見られてるって子どもが感じた瞬間から、何かが動き始める。教えるのは、それからでも遅くない」
れいはメモをそっと返した。それから、もう一度取っていいかと目で問う。俺は黙って彼女の方へ押し返した。
 翌日、れいは職員室で深く頭を下げ、副校長に静かに言った。
「三年一組のことで、ご相談があります」
俺も学校へ向かった。別室で校長と学年主任に話をした。
「任せるってのは、放すことじゃない。支えるってのは、一人に背負わせることでもない。担任ひとりに嵐を背負わせるのは、教育じゃねぇ。子どもを守るのは学校だ。一人で抱える話でもねぇだろ」
校長は黙った。その日から状況は少しずつ動き出した。子どもたちの背景が見直される。家庭で寄り添う大人の手が足りていない現実。れいも授業を変えた。板書を減らし、評価より対話を増やした。そして、ただ子どもの目を見ることを優先した。
帰りの会で、れいは静かに言った。本来なら、ご法度とされているやり方だ。
「今日はね、少しだけ考えてほしいことがあります。もし、隣の人が困っていたら……自分は何ができるかなって」
子どもたちが顔を上げる。「声をかけるでもいいし、そっとしておくでもいい。どんなことでもいいんです」。しばらくして、誰かが言った。「ノートを貸す」。別の子が言った。「給食を分ける」。小さな声が、ぽつりぽつりと続いた。そのとき、一人の子が小さく言った。「……昨日、夜ごはん一人だったって言ってた」。教室は一瞬静かになった。だが、その言葉は誰かを責める声ではなかった。誰かを思い出した声だった。その瞬間、教室の空気がほんの少し変わった。小さな灯がともった。
 季節が巡った。俺が書きためていた七福神の大人の絵本は、いつの間にか近所の子どもたちの間で噂になっていた。「おじたん、ばいばーい」「おう、気ぃつけて帰れよ」。窓越しに子どもたちへ手を振る。その入れ替わりに、れいが事務所へ入ってきた。
「ありがとな、橘きいつけてな」
「では、ジンさん、また今度。今日の鬼の面、かなり似合ってますよ」
「おぉ」
「ご無沙汰しております」
「よっ、れいちゃん先生」
もう雨に濡れた影ではない。控えめだが、確かな足取りだった。
「珈琲でいいか」
「はい!」
珈琲を淹れる前から、れいは話し始めた。
「教室が、畑のように見えるようになりました」
「難しい土だったろ」
「ええ。でも……難しい土のほうが、芽が出た時の喜びが大きいと、今は思えます」
「ほう。成長したじゃないか」
「ジンさんのおかげです」
「俺は校長を怒鳴っただけだ」
「メモも、です」
「それは昔の先生の言葉だ」
「でも、渡してくれたのはジンさんです」
俺は答えなかった。煙草に火はつけなかった。
学期の終わり、黒板の隅に小さな文字があったという。『先生の声、あったかい』『先生、ありがとう』。
「……誰が書いたか分かったか」
「分かりません。でも、分からなくてもいいと思いました」
俺はゆっくり煙草に火をつけた。
浦和の夜空に、小さな星がひとつ、瞬いていた。
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