浦和探偵 ジン
第九話
「ビートル」
 
 隣の服屋のおばはんが、事務所に飛び込んできた。
「ジンちゃん、ちょっと来てちょうだい。困ってる人がいるのよ」
商店街のざわめきの中でも、はっきり耳に残る声だった。急いではいるが、切羽詰まってはいない。人助けの気配が、先に立つ声だ。外へ出ると、道の真ん中に一台、年季の入ったビートルが止まっていた。淡い色の車体は丁寧に磨かれていて、古さよりも手のかけ方が目につく。長く付き合ってきた相棒、という雰囲気だった。窓から身を乗り出しているのは、白髪の夫婦だった。
「すんませんなぁ……ふぐしまさ行ぐには、どっちさいげばいいんだべ」
福島なまりが、重たく転がってくる。年に何度か墓参りでこちらへ来ているらしい。高速は使わない。国道だけを選んで走る。今日は煎餅を買うつもりで、いつもの道を外したら分からなくなったという。
「新四号まで案内するよ。俺もちょうど、風に当たりたかったところだ」
「いやぁ、助がりますぅ」
奥さんが、ほっと息を吐いた。ハンドルを握るおくださんの手は節だらけだった。だが指先だけが妙にしなやかで、まだ現役の手だった。
 事務所へ戻り、退勤前のナオナに声をかける。
「ナオナ。新四号の越谷春日部バイパスあたりまで付き合えるか」
「……あと三十分で上がりなんですけど」
「そうだったな」
「野暮用もありますし」
「いつもの野暮用か」
「違う野暮用です」
「そうか」
俺は電話を取り、弦太を呼んだ。
「今どこだ」
「給油中なんさ」
「迎えに来れっか」
「位置、送ってくれるん?」
「あんがとな」
それで終わりだ。俺はおくださんのビートルの後部座席に収まった。エンジン音が丸い。年式は古いが、鈍さはない。
「ようく手入れしてますね」
「これしか相棒いねぇがらなぁ」
 おくださんはハンドルに手を置いたまま言った。走りながら、おくださんは自分の話を始めた。脳梗塞を五回。
「んでもな、そのたんび戻ってきたんだわ」
手のひらを開いて、閉じてみせる。
「ほれ、まだ動ぐべ?」
「動きますね」
「いづもこいつのハンドル握って、戻ってきたんだわ。体が言うごど聞ぐんだ、走らせっと」
「この車が、引き戻してくれたのか」
「そういうごったな」
誇示というより、確かめるような目だった。まだ走れる。まだ、この車と一緒に動ける。しばらく走ると、奥さんがぽつりと続けた。
「墓守も、歳で大変だぁ。遠くなったなぁ、ほんとうに」
「でもな、走ってっと体が言うごど聞ぐんだ」
おくださんがまた繰り返した。俺はそれ以上、何も言わなかった。
節くれ立った手が、頭の隅で別の手と重なった。和歌山を出た夜、蛍光灯の下で封筒を押し込んできた、あの震える指と。
 新四号の手前で、ビートルはゆっくり止まった。
「ここを、どこまでも真っ直ぐ行って、宇都宮で右に曲がりな。あとは福島まで曲がらねぇ」
「いづもの道だべ。親切に、ありがどない」
「桜井さん。本当にありがとうございました」
二人は揃って頭を下げた。ビートルが軽くクラクションを二度鳴らし、走り去っていく。北の空へ、消えた。その直後、渋いエンジン音が重なった。
「あっぶな」
黒いライダースの男が、バイクを滑り込ませる。弦太だった。
「相変わらず色っぽいるん。黒蜥蜴みたいなんさ」
「……なんだそれ」
「悪かったんさ」
「メット!」
視線だけで刺してくる。俺はヘルメットを受け取り、ハンドルを握った。走り出すと、風景が流れる。風の匂いが、どこか懐かしい。
 その流れに、記憶が引っかかった。調査の帰り道、二月の福島、深夜、街灯のない田んぼ道。幽霊かと思った。婆さんだった。立っているだけで、危うい。
「こんな時間に、どうしたんだい」
「息子がごごまで送ってくれだの」
「そうか。息子さんは、もう家に帰ったのかい」
「ごごまで送ってぐれだんだべ」
同じ言葉を繰り返す。聞き取った住所をナビに入れ、送り届けた。着いても、婆さんは首をかしげた。そこは、もう家じゃなかった。道中、婆さんは亡くなったじいさんの話をした。子ども、孫、順番に、宝物みたいに並べていく。笑顔が、やけに明るかった。らちがあかず、最後は警察に託した。
後日、気になって近所を回った。息子に会った。「ありがどうございまじだ」。俺は少し黙ってから言った。「そうか。あんたの親だ。ちゃんと面倒みてやれよ」。息子は舌打ちしたが、それ以上は何も言わなかった。だが裏側は乳母捨てだった。息子は近所には、「また戻ってきやがっだんだ。どっがで倒れて見づがると思っでだのによ」と吐き捨てていた。俺は地域包括支援センターに話を通し、民生委員にも連絡を入れた。俺にできるのはそこまでだ。心配していた近所の人間が声をかけてきた。
「それでぇ、なんどがなりますがぁ。旦那さんが亡くなってから、ひどぐなったんだべ」
「すぐには変わらない。でもな、役所も動く。民生委員もいる。あんたらが声をかけてくれれば、飯も風呂も、誰かが見てくれるようになる」
「ほだば……うぢでも、たまに飯さ持ってぐべが」
「それで十分だ」
数日後、地域包括の職員と民生委員が家を訪ね、訪問介護の段取りがついたと聞いた。近所の婆さんたちも、交代で様子を見ることになったらしい。心配の言葉が、冬の空気に沈んでいた。できることを、順に置いただけだ。置いたからといって、何かが変わるとは限らない。それでも、置かなければ何も始まらない。
 事務所に戻ると、ナオナはもう帰っていた。深く煎った豆を挽き、珈琲を落とす。湯気が細く立ち、香りだけが先に部屋に満ちた。弦太の分も、カップに注いだ。
「またチューニングしただろ」
「わかるん?」
「俺を誰だと思ってら」
「じゃあ他に何か変わったとこ分かるん?」
「タイヤだろ」
「……なんで分かるん?」
「音が違う」
「ジンさん、少し怖いんさね」
「褒め言葉か。そう受け取っておく」
弦太は珈琲を両手で包み、少し黙った。それから、ぽつりと言った。
「……今日の人、よかったんさ」
俺は珈琲をひと口飲んだ。走り続けた車も、深夜の田んぼ道に立ち尽くした婆さんも、全部、俺の時間の中に並んでいる。助けたとか、救ったとか、そういう言葉は使えない。俺がやったのは、少しだけ道を指しただけだ。あのビートルは、もう見えない。俺は椅子に浅く腰をかけ、前のめりのまま、煙草に火を点けた。
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