浦和探偵 ジン
第三話
「夜を拭う耳」
 
 夜のビルは、昼間の顔をすっかり脱ぎ捨てていた。空調の低い唸りと、蛍光灯の白い光だけが残り、広いフロアは均されすぎた静けさに沈んでいる。遠くで、モップが床をなぞる音がした。シュッ、シュッ、と一定で、乱れがない。まるで深い森の奥で、誰にも知られず祈りを捧げているような拍子だった。
 ジンは、歩くのをやめた。少し離れた場所で、若い清掃員のみなみが床を拭いている。白いマスク、作業着、片方のイヤホンからは、歴史の公開講座が流れている。古代文明や考古学の話が、するりと頭に入ってくる。世界を遮断しているわけではない。もう片方の耳からは、モップが床を叩くわずかな反響、壁に当たって戻る空気の音。みなみは、両方を確かめるように動いていた。床と話しているような手つきだった。ジンは静かに声をかけた。
「いい手つきだな」
みなみの肩がビクッと震えた。モップが止まる。
「……す、すみません」
視線を落としたまま、小さな声で言う。
「気味、悪いでしょうか。私……変な動き、してましたか……」
ジンはゆっくり首を振った。
「いや。ただの掃除にしちゃ、ずいぶん丁寧な仕事だと思ってな」
みなみは少し黙った。それから、ためらうように言った。
「……丁寧にしないと、気が済まないんです。汚れが残っていると……なんだか音が濁る気がして」
ジンの眉が、ほんの少し上がった。
「音が濁る?」
「変ですよね。自分でも、うまく説明できないんですけど……」
ジンは軽く笑った。
「変じゃねえよ。そんな耳を、モップに持たせておくのは勿体ないって言ってるだけだ」
みなみの手が止まった。驚きというより、何かを確かめるような沈黙だった。ジンはポケットから名刺を取り出した。
「桜井ジンだ。よかったら、少し休憩しないか。無理に話さなくていい」
みなみは名刺を見つめた。それから、小さくうなずいた。
 休憩所は、自販機の灯りだけが浮かぶ小さな部屋だった。ジンは缶コーヒーを二本買い、テーブルに置いた。みなみは缶に触れず、先に口を開いた。
「……どうして、声をかけたんですか」
ジンはプルタブを開けた。乾いた音が静かな部屋に響く。
「勿体ないと思ったからだ。それと、夜中に一人で、あれだけ静かに仕事できる人間に久しぶりに会った」
みなみはしばらく黙っていた。それから、ようやく缶に手を伸ばした。
「……言葉にすると、消えてしまうんです。頭の中では、世界はもっと鮮やかな音で満ちているのに、口を開くと、全部が安っぽい嘘になる」
ジンは黙って聞いていた。
「だから、夜が好きなんです。誰も、私に答えを求めないから」
「だが、丁寧なお前を急かす奴はいるんだろう」
みなみの手が止まる。
「……先日、他社の清掃員に言われました。体の大きな人に。『お前みたいな賢そうな小娘が、こんなところで、ちんたら拭いてんじゃねえ。鼻につくんだよ』って。バケツの水を、わざと汚されました……」
ジンはゆっくり息を吐いた。
「そいつに何か言ったか」
「……何も。声が出なかったんです。また同じことされると思います」
「逃げたのか」
「……その場に固まって、終わるのを待つしか」
ジンは天井を見た。蛍光灯が、かすかに瞬いている。
「そいつはな、お前の静けさが怖かっただけだ。まだ何にでもなれる人間を見ると、腐った連中は落ち着かねえ。自分が諦めたもんを、突きつけられてる気分になるんだろうな」
「でも私、高校も……」
言葉が途切れる。
「続けな」
「……辞めました」
「理由は」
「……うまく言えません」
「言わなくていい」
 ジンは机に紙を滑らせた。高卒認定試験の案内だった。みなみの目が大きくなる。
「……これは」
「新しい扉の合鍵だ。お前の耳なら、使い方はわかるはずだ」
みなみの手が震える。
「勉強……できるでしょうか」
「溜まってるもんは、ちゃんとあるだろ?」
「もし途中で……」
「一緒にやる。一度引き受けた依頼人は、目的地まで送り届ける主義でね」
みなみは小さく笑った。
「……依頼料は?」
「珈琲を嫌いにならないことだ」
初めて、みなみが笑った。音のない、小さな笑いだった。だがジンには、ちゃんと聞こえた。
「ありがとうございます。仕事に戻ります」
 しばらくして、橘がコツコツと足音を立ててやってきた。静かだった休憩所の空気が、一気に現実に引き戻される。
「すみません、遅くなりました」
ジンは手元の時計も見ずに、ゆっくりと顔を上げた。
「……あぁ。あと三秒遅かったら、寂しくて彫像になるところだったぜ」
「本当にすみません、お待たせしてしまって。……って、彫像ですか? またえらく芸術的な待ち方ですね。私の仕事に合わせた冗談をいってくださるなんて、あいかわらず優しいですね」
「そんなんじゃねぇよ」
橘が苦笑いした。
「……笑い事じゃねえ。うさぎは寂しいと死んじゃうんだぞ」
橘は一瞬、ジンの真剣すぎる横顔に毒気を抜かれたが、すぐに噴き出した。
「ははは! ジンさんが『うさぎ』だなんて、ブラックが過ぎますよ。じゃあ、死なないうちに行きましょうか」
「……あぁ」
ジンは小さく口角を上げると、みなみが残していった静かな余韻を胸に、夜の街へと踏み出した。
 それからみなみの夜は少しずつ変わった。清掃を終えたあと、事務所に寄る。参考書を開く。ジンはコーヒーを淹れる。言葉の少ない時間だったが、それは空虚ではなかった。ある夜、みなみがぽつりと言った。
「……あの人、また来ました」
「それで」
「今度は言えました。やめてください、って」
ジンは煙を吐いた。
「どうだった」
「心臓がうるさかったです。でも、音は濁りませんでした」
ジンは静かにうなずいた。
「上出来だ。人には役目がある。守る奴、知を渡す奴、作る奴、届ける奴。みなみにもある」
みなみは静かにうなずいた。
 浦和の夜は、まだ深い。だがみなみの足音は、前より確かなリズムを刻んでいた。人は、急がせなければちゃんと歩く。ジンはミルを回した。次の依頼人のために。湯気が立ち、深い珈琲の香りが、静かな事務所に、音もなく満ちていった。
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