浦和探偵 ジン
第四話
「背中が語ること」
浦和の午後の商店街。和三盆クッキーののぼり旗が、ほとんど風のない空気の中で、遠くの出来事を知らせる合図のようにかすかに揺れていた。探偵事務所の扉を開けると、古い紙と珈琲の香りが混ざり合っている。誰にも急かされずに流れてきた時間が、そこに静かに座っているようだった。その扉を、一人の女が勢いよく押し開けた。
「……あれ? 喫茶店じゃないんですね。ここ」
中を見回して、首をかしげる。帰ろうとしたその肩を、ジンが片手で軽く制した。
「半分は迷子の保健所。もう半分は暇人の溜まり場だ。座れよ。珈琲くらいだす」
「え、いいんですか?」
「いいから言ってる」
女――しゅりは、確かめるようにゆっくり歩いてきて腰を下ろした。静けさが少しだけ緩む。そして、愚痴が流れ出した。
「うちの部長、本当に使えないんです。仕事は遅いし、センスも古いし。部下を支えてる顔してますけど……見てるだけで寒気するっていうか」
ジンは黙って珈琲を置いた。言葉は強い。だがその奥には、迷いと疲れがにじんでいた。
「具体的に何がある」
「全部ですよ。会議でもぼーっとしてるし、資料も時代遅れ。私みたいにちゃんと回してる人間が、割を食ってる気がするんです」
正しさを背負い込みすぎるタイプだった。弱い者には席を譲るが、遅い上司には容赦がない。
「この間、頭にきて言ったんです」
「何をだ」
「やだですって」
ジンが少し笑った。
「流行語大賞でも狙ってるのか」
「流行ってません」
「そうか。お前はその部長の一日を、全部見たことあるか」
しゅりが一瞬止まる。
「……見たことはないですけど」
「目に見える有能さだけ追いかけてると、大事なもん見落とすぜ」
「でも結果が出てない人を評価しろって言うんですか」
「評価しろとは言ってない。見ろ、って言ってる」
しゅりは鼻で笑い、珈琲を飲み干した。疑念だけを残して帰っていった。ジンはしばらく扉を見ていた。人の評価なんてものは、光の当たり方ひとつで変わる。あの部長の背中を、一度見ておく必要があった。
ジンは電話をかけた。
「えいちゃん、暇か?」
しばらくして、写真館のえいたがやってきた。
「ジンさん、また……なんか面白そうな匂い、してますよね」
「夜のオフィスだ。付き合うか?」
「いいっすよ。そういうの、わりと好きなんで」
夜のビルは静かだった。誰もいない廊下、人気の消えたオフィス。蛍光灯の下で、一人の男がパソコンに向かっていた。例の部長だった。部下が昼間にやらかしたミスの穴を埋めるため、取引先への謝罪メールを何度も書き直している。却下された部下の提案書を、本人の手柄になるように手直しする。休暇中の社員が困らないよう、誰にも頼まれていないマニュアルを作る。不器用な指が、何度も打ち直しながら、深夜のキーボードを叩いていた。えいたが小声で言った。
「……あー、なんか、完全に裏方の人じゃないですか、これ」
「そういう奴ほど、昼間は損する」
えいたは静かにカメラを回した。
「ジンさん、これ……全部残しといた方がいいっすか?」
「背中だけでいい」
「了解っす」
翌朝、ジンはしゅりを呼び出した。
「おはよう。朝の珈琲は頭を冷やす」
「なんですか急に」
「座れ。見せたいもんがある」
タブレットを机に滑らせた。そこには、夜のオフィスで働く部長の姿が映っていた。しゅりの手が止まる。
「……これ、本物ですか」
「俺が見てきた」
「昨夜?」
「やだです頑張ってたぞ」
しゅりの目が震えた。
「知らなかった……私、あんなに見下してたのに」
「人はな、見られてないときに、だいたい分かる」
しばらく長い沈黙が続いた。やがてしゅりが言った。
「私……自分が仕事できるって思ってたから、人を上から見てたんですね」
「気づいたなら、それでいい」
しゅりは小さく笑った。
「タメ語にですます混ざるの、やっぱ変ですよね」
「気持ち乗せてる証拠だ。今日、部長の後ろ姿を一度ちゃんと見ろ」
「……はい」
しゅりは深く頭を下げて出ていった。
数週間後、再び事務所の扉が開いた。菓子折りを抱えたしゅりが立っていた。
「最近、少し周りが見えるようになりました」
「ほう」
「やだですは使ってません」
ジンが笑った。
「成長したな」
「部長の動きを見てると、今何が必要か分かるようになったんです」
「いい上司だ」
「私、あの人に必死についていきます」
「惚れたか」
「尊敬です! でも顔は好みじゃないですけど」
「罰当たるぞ」
その時、扉が開いた。
「ジン、車」
ただのぶだった。
「たーくん、助かったよ」
「タイヤも替えといた」
「後で払う」
「うぃ」
ぶっきらぼうに鍵を置いて帰っていった。しゅりが笑う。
「面白い人ですね」
「浦和は退屈しない町だ」
「じゃあ私も帰ります」
「気ぃつけてな」
しゅりは深く頭を下げて出ていった。扉が閉まる。事務所に静かな空気が戻った。ジンはミルを回した。新しい豆の香りが、ゆっくりと部屋に広がっていった。
浦和の午後の商店街。和三盆クッキーののぼり旗が、ほとんど風のない空気の中で、遠くの出来事を知らせる合図のようにかすかに揺れていた。探偵事務所の扉を開けると、古い紙と珈琲の香りが混ざり合っている。誰にも急かされずに流れてきた時間が、そこに静かに座っているようだった。その扉を、一人の女が勢いよく押し開けた。
「……あれ? 喫茶店じゃないんですね。ここ」
中を見回して、首をかしげる。帰ろうとしたその肩を、ジンが片手で軽く制した。
「半分は迷子の保健所。もう半分は暇人の溜まり場だ。座れよ。珈琲くらいだす」
「え、いいんですか?」
「いいから言ってる」
女――しゅりは、確かめるようにゆっくり歩いてきて腰を下ろした。静けさが少しだけ緩む。そして、愚痴が流れ出した。
「うちの部長、本当に使えないんです。仕事は遅いし、センスも古いし。部下を支えてる顔してますけど……見てるだけで寒気するっていうか」
ジンは黙って珈琲を置いた。言葉は強い。だがその奥には、迷いと疲れがにじんでいた。
「具体的に何がある」
「全部ですよ。会議でもぼーっとしてるし、資料も時代遅れ。私みたいにちゃんと回してる人間が、割を食ってる気がするんです」
正しさを背負い込みすぎるタイプだった。弱い者には席を譲るが、遅い上司には容赦がない。
「この間、頭にきて言ったんです」
「何をだ」
「やだですって」
ジンが少し笑った。
「流行語大賞でも狙ってるのか」
「流行ってません」
「そうか。お前はその部長の一日を、全部見たことあるか」
しゅりが一瞬止まる。
「……見たことはないですけど」
「目に見える有能さだけ追いかけてると、大事なもん見落とすぜ」
「でも結果が出てない人を評価しろって言うんですか」
「評価しろとは言ってない。見ろ、って言ってる」
しゅりは鼻で笑い、珈琲を飲み干した。疑念だけを残して帰っていった。ジンはしばらく扉を見ていた。人の評価なんてものは、光の当たり方ひとつで変わる。あの部長の背中を、一度見ておく必要があった。
ジンは電話をかけた。
「えいちゃん、暇か?」
しばらくして、写真館のえいたがやってきた。
「ジンさん、また……なんか面白そうな匂い、してますよね」
「夜のオフィスだ。付き合うか?」
「いいっすよ。そういうの、わりと好きなんで」
夜のビルは静かだった。誰もいない廊下、人気の消えたオフィス。蛍光灯の下で、一人の男がパソコンに向かっていた。例の部長だった。部下が昼間にやらかしたミスの穴を埋めるため、取引先への謝罪メールを何度も書き直している。却下された部下の提案書を、本人の手柄になるように手直しする。休暇中の社員が困らないよう、誰にも頼まれていないマニュアルを作る。不器用な指が、何度も打ち直しながら、深夜のキーボードを叩いていた。えいたが小声で言った。
「……あー、なんか、完全に裏方の人じゃないですか、これ」
「そういう奴ほど、昼間は損する」
えいたは静かにカメラを回した。
「ジンさん、これ……全部残しといた方がいいっすか?」
「背中だけでいい」
「了解っす」
翌朝、ジンはしゅりを呼び出した。
「おはよう。朝の珈琲は頭を冷やす」
「なんですか急に」
「座れ。見せたいもんがある」
タブレットを机に滑らせた。そこには、夜のオフィスで働く部長の姿が映っていた。しゅりの手が止まる。
「……これ、本物ですか」
「俺が見てきた」
「昨夜?」
「やだです頑張ってたぞ」
しゅりの目が震えた。
「知らなかった……私、あんなに見下してたのに」
「人はな、見られてないときに、だいたい分かる」
しばらく長い沈黙が続いた。やがてしゅりが言った。
「私……自分が仕事できるって思ってたから、人を上から見てたんですね」
「気づいたなら、それでいい」
しゅりは小さく笑った。
「タメ語にですます混ざるの、やっぱ変ですよね」
「気持ち乗せてる証拠だ。今日、部長の後ろ姿を一度ちゃんと見ろ」
「……はい」
しゅりは深く頭を下げて出ていった。
数週間後、再び事務所の扉が開いた。菓子折りを抱えたしゅりが立っていた。
「最近、少し周りが見えるようになりました」
「ほう」
「やだですは使ってません」
ジンが笑った。
「成長したな」
「部長の動きを見てると、今何が必要か分かるようになったんです」
「いい上司だ」
「私、あの人に必死についていきます」
「惚れたか」
「尊敬です! でも顔は好みじゃないですけど」
「罰当たるぞ」
その時、扉が開いた。
「ジン、車」
ただのぶだった。
「たーくん、助かったよ」
「タイヤも替えといた」
「後で払う」
「うぃ」
ぶっきらぼうに鍵を置いて帰っていった。しゅりが笑う。
「面白い人ですね」
「浦和は退屈しない町だ」
「じゃあ私も帰ります」
「気ぃつけてな」
しゅりは深く頭を下げて出ていった。扉が閉まる。事務所に静かな空気が戻った。ジンはミルを回した。新しい豆の香りが、ゆっくりと部屋に広がっていった。