浦和探偵事務所帖 ぱぁとわん 萬屋マイク
ジャガーとねこちゃんと彼女のハンドル
 昼下がりの浦和は、相変わらず淡々としていた。太陽だけが機嫌よく、ジャガーXJのボンネットにためらいのない光を落とす。磨いた黒に空が二つ映り、それを眺めていると、胸の奥の重さが少し抜けた。そのとき、事務所の前で杖をついた老女が足を止めた。よた、よたと近づき、エンブレムを見つめて目を細める。
「まあ……かわいいねぇ。このねこちゃん」
そう言って指先でなぞり、商店街へ向かっていった。こういう触れられ方をする日は、だいたい悪くない。胸の奥に、あたたかいものが残った。

 その少し前の話だ。充希は商店街を歩いていた。買い物袋を下げた手に力が入り、運転のことを考えると呼吸が浅くなる。免許は取ったが、ハンドルを握ると体が固まる。八百屋の前で足が止まり、店主に声をかけられた。
「車、こわいんだって?」
うなずくと、
「あんたなら大丈夫。考えすぎるくらい、ちゃんとしてる」
落ち着いて話を聞いてくれる人を探している、と充希が口にすると、角の細道にある俺の事務所の名が出た。文房具屋でも同じ名を聞いたという。
「聞き上手で、急かさない」
それだけで、足は前に出たらしい。

 事務所の前で、充希は一度立ち止まり、息を整えてからノックした。
「……すみません。車のことで相談があって」
扉がきしみ、俺は顔を出した。道路に出ると頭が真っ白になるという話を、遮らずに聞く。俺はうなずき、
「じゃあ乗ってみるか。ねこちゃんに」
と言った。助手席に乗せ、流れを急がせず走る。ブレーキを踏む間。ウィンカーを出す呼吸。右折で読む相手の気配。
「車は力じゃない。間合いだ」
広い駐車場でハンドルを渡すと、震えながらも前へ出た。
「目線は先だ。体はあとからついてくる」
失敗しても、充希は逃げなかった。街灯が灯るころ、長い息が静かにこぼれた。
「よく頑張ったな」
「ありがとうございました」

 帰り道、表情はすっかりやわらいでいた。
「車って、こわいだけじゃないんですね」
自由と責任の話をすると、はにかんだ。
「ねこちゃんって呼んでいいですか」
「好きにしな。名前より中身だ」
慣れても安全運転だと釘をさすと、素直な返事が返ってきた。群青の空をXJは静かに走る。不安は消えない。だが、扱える大きさにはなる。人はそれで前に出られる。送り届けたあと、俺は事務所へ向けてハンドルを切った。いつもより、少しだけやわらいだ走りだった。
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