浦和探偵 ジン
第六話
「悠々」
事務所向かいのシャッターが下りたままの店先で、コンビニのビニール袋が風にあおられ、ひとりで踊っている。昼でも夜でもない時間帯、無声映画の一コマのように、よく踊る。その頼りない動きを眺めながら、女の話を聞いている俺がいる。
名前はきょうこという。ナオナは、きょうこが来ると姿を消す。「野暮用がありますので」それだけ言って、音もなく消える。理由は、だいたい察しがつく。論理と効率で世界を編むナオナにとって、きょうこという存在は、解けない数式のように居心地が悪いのだろう。きょうこの用件は、本人としてははっきり訴えているつもりなのだろうが、こちらには要領を得ない。ただ困っている、という感触だけが霧のように伝わり、最後まで意図が読み取れない。まれにだが、こちらが先に意味を掴むこともある。言葉の外側に置かれた不安だけが、妙に正確に伝わってくる瞬間があるのだ。
きょうこは席に座ると、必ず足を組む。鞄を膝に置き、壁掛けの時計を見る。まず落ち着く姿勢を選ぶのだ。足を組むのは癖ではない。世界との距離を測るための、彼女なりの定規のようなものだと、俺は思っている。職場でも、私生活でも、食事会の席でも、きょうこは同じ質問を用意している。「ご両親はお元気ですか」「お仕事、大変じゃありませんか」「最近、体調はいかがですか」。左から、時計回り。順番は必ず守る。質問を投げた瞬間、彼女は壁掛け時計に目をやる。答えは聞かない。興味がない。会話を成立させた、という事実だけが、彼女には必要なのだ。人は、遮られなければ、それで済んだ気になる。きょうこは、そこだけは外さない。
今日は珍しく、違う話題を持ち出してきた。
「銀行のATMで、暗証番号を変更してください、という表示が毎回出るんです」
「暗証番号が生年月日だから、変えろって言ってるんだ」
「変えなきゃいけないですか」
「変えたほうがいいぞ」
「そういうものですか」
きょうこの各種パスワードは、すべて誕生日だ。英数字を求められれば、名前と誕生日。メールアドレスまでもが名前と誕生日。車のナンバーも誕生日。
「全部、誕生日か」
「そうです」
「どこかで一個、変えないか」
「どれを変えたら、いいですか」
「自分で決めてくれ」
「急には、ちょっと……」
きょうこは壁の時計を見た。合理性を選ぶ人間ではある。ただ、迷わないための道筋を、それしか知らないだけだ。冷たいわけじゃない。俺は何も言わず、深く煎った豆の香りが立つ珈琲を出した。
カウンターの端には、開いたままの小さなスケッチブックが置いてある。さっきまで、手慰みに鉛筆を走らせていた。丸い顔の男や、袋を抱えたような影の輪郭が、落書きのようにいくつか並んでいる。ただ、手を動かしていると頭の中の埃が落ちる。
「仕事場では」
「なんでしょう?」
「会議の終盤、どうしてる」
「お先に、と言って帰ります」
「やはりな。いつもか?」
「毎回です」
「ここからが大事、という時にも」
「そういう時は、少し早めに言います」
「……なるほどな」
失敗よりも、役割を背負うことのほうが、彼女には重いのだ。
ガラケーの話だけは、別の目をする。
「ガラケー、いつ使えなくなるんですか」
「もうほとんど使えなくなってる」
「皆さんも心配でしょう」
「まあ、そうかもな」
「使えなくなったら、どうすればいいですか」
「スマホに変えるしかないだろう」
「それが、なかなか踏み切れなくて。私には合わないかもしれないし」
「やってみればいいよ」
「やってみて、うまくいかなかったら、どうするんですか」
このやり取りを、きょうこは会う人すべてとやる。そのときのきょうこは、血が沸いているようだ。真剣な目でうなずき、相手の目を見る。だが、聞いてはいない。聞いて、聞かず、また聞く。不安を解消したいのだが、受け取る作法を教わらなかった。問いは切実だが、答えの置き場がない。だから同じ問いを、何度でも差し出す。
「パソコンを使うのに、Wi-Fiが入らないんです」
「どこで」
「仕事場とか、カフェとか」
「パスワードを入れなきゃだめなんじゃないか」
きょうこは壁の時計を見る。
「パスワードは登録してあります。家では入ります。でも外に出ると入らないです」
「家のWi-Fiは、家の中しか飛ばない」
前にもした説明を、また繰り返しそうになって、俺は声を止めた。言葉を重ねるほど、彼女は時計を見る。意味が滑り落ちていく。
俺は椅子を引いて、彼女の正面に立った。そして、言葉を捨てた。音を出さず、口の形だけをゆっくりと動かす。舞台に立つ人間のように身振り手振り。人差し指を唇に当て、静かに、という合図を作る。それから両手を広げ、事務所の中に円を描く。外に向かって歩く真似をして、ふっと手を消す。きょうこは、いつものように時計を見ようとして――止まった。俺の顔に釘付けになった。俺はタブレットを取り出し、画面上に簡単な図を描く。四角い家と、外の丸い印。その間に一本の線を引くだけだ。きょうこは息を止め、画面と俺の動きを交互に追った。理解したというより、流れを掴んだ顔だった。最後に俺が動きを止めると、きょうこはゆっくりと、深くうなずいた。あとで確かめると、内容はきちんと通じていた。
きょうこが帰ったあと、ナオナが戻ってきた。
「きょうこさん、帰りましたか」
「ああ」
「ジンさんこれ、途中で橘さんに会いましたよ」
「橘は何か言ってたか?」
「絵は良いけど、内容が子供むけじゃないとかなんとか」
「そうか。ありがとな」
「今日は何のご相談でしたか」
「Wi-Fiと、暗証番号と、ガラケーだ」
「前回も同じでしたね」
「その前も同じだったと思う」
「……ジンさん、よく付き合えますね」
「お前が逃げるからだろ」
「野暮用がありましたので」
「都合がいい野暮用だな」
ナオナは笑わず、ミルを回して珈琲を淹れ直した。深く煎った豆の香りが、改めて事務所に満ちていく。俺はスケッチブックを手元に引き寄せ、鉛筆を転がしながらナオナの話を聞いた。
「きょうこさん、エステで迷子になったの、ご存知ですか」
「聞いた。店主が車で迎えに行ったんだろう」
「目印のラーメン屋をお伝えしても、住宅街をぐるぐると」
「地図は見なかったのか」
「地図の見方が分からないそうです」
「……車のナビは」
「設定の仕方も分からないそうです」
「……ガラケーは」
「ガラケーでもダメみたいです」
「そうか」
鉛筆の先で、さっきの落書きの続きを少しだけなぞる。福々しい顔が一つ、ゆるく並んだ線の中に紛れた。誰に見せるわけでもない。癖みたいなものだ。俺はスケッチブックを閉じて、タバコに火をつけた。
翌日もきょうこは来た。
「今日は何だ」
「友達との待ち合わせまで、時間があったので」
「用はないのか」
「特にないです」
「そうか」
俺は何も言わず、珈琲を出した。きょうこは足を組み、壁の時計を見た。用がない場所に来るやつはな、だいたい決めきれなかったやつだ。理由がなくても座っていい場所があると知ってしまった人間は、そこを手放さない。間違っているのだろうか。それとも、聞く耳を育ててもらえなかっただけなのか。耳はある。だが、聞いたあとにどう扱えばいいのか、誰も教えなかった。それだけの話かもしれない。
きょうこは、テレビもYouTubeも映画も見ない。考えたくないからだ。今頃、自分のマンションの窓から、通過する新幹線と空を、ただ透明な目で眺めているのだろう。事務所の椅子は、今日も同じ位置にある。俺は何も言わず、煙を天井へ逃がした。あの袋が、また風にあおられて踊り始めていた。そのときより、少しだけ長く見ていた。それで十分だと思えた。
事務所向かいのシャッターが下りたままの店先で、コンビニのビニール袋が風にあおられ、ひとりで踊っている。昼でも夜でもない時間帯、無声映画の一コマのように、よく踊る。その頼りない動きを眺めながら、女の話を聞いている俺がいる。
名前はきょうこという。ナオナは、きょうこが来ると姿を消す。「野暮用がありますので」それだけ言って、音もなく消える。理由は、だいたい察しがつく。論理と効率で世界を編むナオナにとって、きょうこという存在は、解けない数式のように居心地が悪いのだろう。きょうこの用件は、本人としてははっきり訴えているつもりなのだろうが、こちらには要領を得ない。ただ困っている、という感触だけが霧のように伝わり、最後まで意図が読み取れない。まれにだが、こちらが先に意味を掴むこともある。言葉の外側に置かれた不安だけが、妙に正確に伝わってくる瞬間があるのだ。
きょうこは席に座ると、必ず足を組む。鞄を膝に置き、壁掛けの時計を見る。まず落ち着く姿勢を選ぶのだ。足を組むのは癖ではない。世界との距離を測るための、彼女なりの定規のようなものだと、俺は思っている。職場でも、私生活でも、食事会の席でも、きょうこは同じ質問を用意している。「ご両親はお元気ですか」「お仕事、大変じゃありませんか」「最近、体調はいかがですか」。左から、時計回り。順番は必ず守る。質問を投げた瞬間、彼女は壁掛け時計に目をやる。答えは聞かない。興味がない。会話を成立させた、という事実だけが、彼女には必要なのだ。人は、遮られなければ、それで済んだ気になる。きょうこは、そこだけは外さない。
今日は珍しく、違う話題を持ち出してきた。
「銀行のATMで、暗証番号を変更してください、という表示が毎回出るんです」
「暗証番号が生年月日だから、変えろって言ってるんだ」
「変えなきゃいけないですか」
「変えたほうがいいぞ」
「そういうものですか」
きょうこの各種パスワードは、すべて誕生日だ。英数字を求められれば、名前と誕生日。メールアドレスまでもが名前と誕生日。車のナンバーも誕生日。
「全部、誕生日か」
「そうです」
「どこかで一個、変えないか」
「どれを変えたら、いいですか」
「自分で決めてくれ」
「急には、ちょっと……」
きょうこは壁の時計を見た。合理性を選ぶ人間ではある。ただ、迷わないための道筋を、それしか知らないだけだ。冷たいわけじゃない。俺は何も言わず、深く煎った豆の香りが立つ珈琲を出した。
カウンターの端には、開いたままの小さなスケッチブックが置いてある。さっきまで、手慰みに鉛筆を走らせていた。丸い顔の男や、袋を抱えたような影の輪郭が、落書きのようにいくつか並んでいる。ただ、手を動かしていると頭の中の埃が落ちる。
「仕事場では」
「なんでしょう?」
「会議の終盤、どうしてる」
「お先に、と言って帰ります」
「やはりな。いつもか?」
「毎回です」
「ここからが大事、という時にも」
「そういう時は、少し早めに言います」
「……なるほどな」
失敗よりも、役割を背負うことのほうが、彼女には重いのだ。
ガラケーの話だけは、別の目をする。
「ガラケー、いつ使えなくなるんですか」
「もうほとんど使えなくなってる」
「皆さんも心配でしょう」
「まあ、そうかもな」
「使えなくなったら、どうすればいいですか」
「スマホに変えるしかないだろう」
「それが、なかなか踏み切れなくて。私には合わないかもしれないし」
「やってみればいいよ」
「やってみて、うまくいかなかったら、どうするんですか」
このやり取りを、きょうこは会う人すべてとやる。そのときのきょうこは、血が沸いているようだ。真剣な目でうなずき、相手の目を見る。だが、聞いてはいない。聞いて、聞かず、また聞く。不安を解消したいのだが、受け取る作法を教わらなかった。問いは切実だが、答えの置き場がない。だから同じ問いを、何度でも差し出す。
「パソコンを使うのに、Wi-Fiが入らないんです」
「どこで」
「仕事場とか、カフェとか」
「パスワードを入れなきゃだめなんじゃないか」
きょうこは壁の時計を見る。
「パスワードは登録してあります。家では入ります。でも外に出ると入らないです」
「家のWi-Fiは、家の中しか飛ばない」
前にもした説明を、また繰り返しそうになって、俺は声を止めた。言葉を重ねるほど、彼女は時計を見る。意味が滑り落ちていく。
俺は椅子を引いて、彼女の正面に立った。そして、言葉を捨てた。音を出さず、口の形だけをゆっくりと動かす。舞台に立つ人間のように身振り手振り。人差し指を唇に当て、静かに、という合図を作る。それから両手を広げ、事務所の中に円を描く。外に向かって歩く真似をして、ふっと手を消す。きょうこは、いつものように時計を見ようとして――止まった。俺の顔に釘付けになった。俺はタブレットを取り出し、画面上に簡単な図を描く。四角い家と、外の丸い印。その間に一本の線を引くだけだ。きょうこは息を止め、画面と俺の動きを交互に追った。理解したというより、流れを掴んだ顔だった。最後に俺が動きを止めると、きょうこはゆっくりと、深くうなずいた。あとで確かめると、内容はきちんと通じていた。
きょうこが帰ったあと、ナオナが戻ってきた。
「きょうこさん、帰りましたか」
「ああ」
「ジンさんこれ、途中で橘さんに会いましたよ」
「橘は何か言ってたか?」
「絵は良いけど、内容が子供むけじゃないとかなんとか」
「そうか。ありがとな」
「今日は何のご相談でしたか」
「Wi-Fiと、暗証番号と、ガラケーだ」
「前回も同じでしたね」
「その前も同じだったと思う」
「……ジンさん、よく付き合えますね」
「お前が逃げるからだろ」
「野暮用がありましたので」
「都合がいい野暮用だな」
ナオナは笑わず、ミルを回して珈琲を淹れ直した。深く煎った豆の香りが、改めて事務所に満ちていく。俺はスケッチブックを手元に引き寄せ、鉛筆を転がしながらナオナの話を聞いた。
「きょうこさん、エステで迷子になったの、ご存知ですか」
「聞いた。店主が車で迎えに行ったんだろう」
「目印のラーメン屋をお伝えしても、住宅街をぐるぐると」
「地図は見なかったのか」
「地図の見方が分からないそうです」
「……車のナビは」
「設定の仕方も分からないそうです」
「……ガラケーは」
「ガラケーでもダメみたいです」
「そうか」
鉛筆の先で、さっきの落書きの続きを少しだけなぞる。福々しい顔が一つ、ゆるく並んだ線の中に紛れた。誰に見せるわけでもない。癖みたいなものだ。俺はスケッチブックを閉じて、タバコに火をつけた。
翌日もきょうこは来た。
「今日は何だ」
「友達との待ち合わせまで、時間があったので」
「用はないのか」
「特にないです」
「そうか」
俺は何も言わず、珈琲を出した。きょうこは足を組み、壁の時計を見た。用がない場所に来るやつはな、だいたい決めきれなかったやつだ。理由がなくても座っていい場所があると知ってしまった人間は、そこを手放さない。間違っているのだろうか。それとも、聞く耳を育ててもらえなかっただけなのか。耳はある。だが、聞いたあとにどう扱えばいいのか、誰も教えなかった。それだけの話かもしれない。
きょうこは、テレビもYouTubeも映画も見ない。考えたくないからだ。今頃、自分のマンションの窓から、通過する新幹線と空を、ただ透明な目で眺めているのだろう。事務所の椅子は、今日も同じ位置にある。俺は何も言わず、煙を天井へ逃がした。あの袋が、また風にあおられて踊り始めていた。そのときより、少しだけ長く見ていた。それで十分だと思えた。