浦和探偵 ジン
第七話
「TATTOO」
 
 窓ガラス越しに中をのぞいているおっさんがいる。
「あつー、また来たんかい」
「あれれ、バレましたか。ねえねえ、気持ち変わってくれた? どうどう?」
「俺はやらねぇって。珈琲いれるよ」
「じゃあお邪魔しますよ。おはよう、ナーちゃん」
来客が重なった。
「こんにちは」
「先生!」
「あつろうさん? しばらく」
昔、俺が埼玉に流れてきたばかりの頃、近所のおっさんたちに随分と世話になった。その縁で、大学の門をくぐっていたことがある。その頃のゼミの担当だったケイコ先生が事務所を訪ねてきた。まだ定年じゃなかったんですか、と言いかけて飲み込む。俺もまた、彼女と同じ川の流れの中で、丁寧に年を重ねている最中なのだから。ナオナは先生の顔を見た瞬間、「野暮用がありますので」それだけ言い残し、音もなく消えた。
「相変わらずね。ここだけ時間の流れが違う」
「散らかってるから、そう見えるだけですよ」
「散らかってるんじゃないわ。詰まってるのよ。いろんなものが」
「先生! お元気でしたか」
「あつろうさんも、お変わりなく」
先生と会長がしばらく話すのを眺めていた。やがて俺は口を開いた。
「……先生、今日は何の用ですか」
先生は珈琲に口をつけてから言った。
「教え子の話よ。消えかけてる子がいるの」
相談はゼミ生のひとりだった。名前はかや。キャバクラから始まり、気づけば風俗に流れていた。ある日から、大学にもゼミにも、ほとんど顔を出していない。このままでは卒論も出せず、卒業もできないという。
「警察ではなくあなたを頼るのは、筋違いだと分かっているけれど」
「分かっていて来る人間の手は、離せませんよ」
「あら、素直ね」
「あつーやる気か?」
「はい?」
「年なんだから無理すんなって」
「それもそうですな。では先生、またぜひ」
「お会いできて良かったです」
あつろうが帰っていった。先生がこちらを見る。
「断る気、あった?」
「先生が来た時点で無かった」
「今日は相談に来て良かったわ」
「今度そいつ連れてきな」
「ありがとうねジン」
俺は煙草をしまった。店の名前も、裏の人間も、だいたい想像どおりだった。
 後日、先生がゼミ生を連れてきた。
「先生、こいつ借りんぜ」
「頼みましたよ、ジン」
俺は馴染みの弁護士の名前を出して、かやと店の関係を断たせた。少し揉めそうにはなったが、向こうも今の時代を知っている。若い女を縛り続けるのが割に合わなくなった、それだけの話だ。外に出たかやは、自由になった顔をしていなかった。現実がまだ自分のものになっていない。そんな目だった。
「かや」
「……はい」
「そのズボン、尻と腰のタトゥーが丸見えだぞ」
「いま売ってるの、だいたいこうなんすよ」
「股上が深いのを履け」
「……はいっす」
「返事はもう少し元気よく」
「はいっす!」
先生は笑い、かやを黙って抱きしめた。
 数日後、先生がまたかやを連れてきた。かやは壁際の椅子に沈み、自分の爪先を見ている。現場からは離れた。だが、その先の道がまだ見えない。
「おい、かや」
「……はい」
「世界の不幸を全部背負ったみたいなツラはやめろ。お前の未来は、ここからだ」
かやは小さくうなずいた。先生は珈琲をひと口飲んでから、俺を見た。
「ねえ、ジン。聞いてもいいかしら」
「説教は勘弁してくださいよ」
「教育って、まず何の話だと思う? ゼミ生の頃に戻って」
俺は煙草を消し、ひとつ咳払いをした。
「成績の話かしら?」
「やっ。生き方の話だ。点数の話じゃ、腹は減らねぇ」
「規則の話?」
「いや、半分正解だ。守れる人間だけを残す仕組みだが、守れない人間を弾く装置でもある。それで人が立ち直ったのは、見たことがねぇ」
「じゃあ、何を一番に置くの?」
「やっ。生きてる本人だ」
先生は少し間を置いた。かやの視線が、そっとこちらへ向く。
「それ、誰の考えに近い?」
「やっ。東井義雄だ。意味でいうと、『人間に、くずはない』と言い切った。救う前に、まず見捨てなかった人だ」
「じゃあ、毎日の現場は?」
「やっ。大村はまだ。実践だな。派手な理論はねぇ。でも、毎日逃げなかった」
「何をした人?」
「言葉だ。殴らずに、人を立たせるための言葉」
「技術?」
「やっ。そうだが、言葉を使うための技術じゃねぇ。本人が一人で立つための技術だ」
 先生は視線を外さず、一歩踏み込むように続けた。
「最後に聞くわ。それを、どうやって『判断』にするの?」
俺はすぐには答えなかった。天井を一度だけ見上げてから、短く吐き出す。
「やっ。中村清だ。『価値は教えられない』って前提に立った人だ。道徳教育論だな」
「正解を与えないの?」
「その代わり、選んだあとの責任から逃がさねぇ。自分自身の『決定』と向き合わせる」
「厳しいわね」
「……いや。優しいだろうよ」
「どうして?」
「人間を、自分で自分を判断できる存在として扱ってるからだ」
かやが、そこで初めて顔を上げた。
「中村の道徳はな、いい人間になれとは言わねぇ。自分で決めろ。その代わり、死ぬ気で考え抜けって言うんだ」
「お前のタトゥーと同じだよ。決めるのは、かやだ」
先生は静かにうなずいた。事務所に、考えるための沈黙が落ちた。
「……やっぱり難しいっす」
「難しくていい。簡単な話は、たいてい嘘だ」
「……タトゥー、消すの。正直怖いっす」
「怖くていい」
「……消したら、なかったことになりますか」
「ならない」
少し間が空いた。
「……じゃあ、なんで消すんですか」
「消したきゃ消せ。残したきゃ残せ。……それも判断だ」
かやは長く息を吐いた。
「……考えてみます」
「それでいい」
 先生とかやは帰っていった。ケイコ先生は最後に振り返り、軽く手を挙げた。それだけで十分だった。
かやはその後、中村清をテーマに卒論を書くことにしたらしい。最初から、そのつもりで連れてきたんじゃないかと思っている。一杯食わされた。人は、簡単には救われない。だが、見捨てられなかった記憶だけは、あとから効いてくる。今日もこの事務所に、正解は売っていない。問いだけが、冷めた珈琲の横に残っていた。あとは、誰が決めるかだけだ。
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