浦和探偵事務所帖 ぱぁとわん 萬屋マイク 改訂版
背中が語ること
 浦和の午後の商店街で、和三盆クッキーののぼり旗が揺れていた。風はほとんどなく、遠くの出来事を伝える合図のように、かすかにたゆんでいる。探偵事務所の扉を押すと、空気が沈んだ。古い紙と珈琲の香りが重なり、誰にも触れられてこなかった時間を守っているように感じられた。時計の針だけが、足音を消すように時を刻んでいた。扉を開けたのは、菜名だった。
「……あれ? 喫茶店じゃなかったんですね」
立ち去ろうとする気配は軽かった。俺は片手を上げて制し、ソファーを指した。菜名は意味を確かめるように近づき、腰を下ろした。俺が考えを整えるあいだ、彼女は黙って待った。
「ようこそ。珈琲でいいか」
「う、うん」
静けさがほどけ、愚痴が流れ出した。
「うちの部長、ほんと使えないんです。遅いし、古いし、空気読めないし……支えてるとか言ってるのが、寒くて嫌なんです」
強い言葉の奥に、迷いと疲れがにじんでいた。
「そうか。人を切り捨てるってのは、見えないもんを見落とすこともある」
菜名は鼻で笑ったが、眉の曇りは消えなかった。珈琲を飲み干すと、疑念だけを残して帰っていった。

 ため息が室内で消えた。平穏がいちばんだと胸では思ったが、奥にざらつきが残った。使えねえ部長さんの実像を確かめる必要があった。オフィスへ向かう前、自動販売機の前に立ち、缶コーヒーのボタンに指を伸ばした。
「それね、当たりが出やすいのよ」
掃除をしていたおばちゃんが言った。
「ほんと?」
缶は落ちてきたが、当たりランプは光らなかった。
「今日はハズレの日みたいだねぇ」
おばちゃんは笑った。俺は缶を取り出し、ポケットにしまう。
「人生も似たようなもんだな」
言葉は夜気に吸い取られた。誰もいないビルの廊下。人気の消えたオフィス。掲示板に落ちる光。使えねえ部長さんは、そこで働いていた。部下の失敗を補うメールを送り、却下されるたびに提案書を作り直し、深夜の蛍光灯の下でキーボードを叩いていた。休暇中の部下のために録画マニュアルを作り、誰にも見せず、失敗を減らすために手を動かし続けていた。俺は影のように見ていた。気づかれず、評価もされず、それでも踏ん張る姿。沈黙が、言葉より雄弁だと示していた。

 翌朝、出勤前の菜名を呼び出した。
「おはようございます」
「おはよう。珈琲飲むか」
「うん」
タブレットを机に置き、言った。
「見てみろ。人は言葉だけじゃわからねえ」
映像には、深夜のオフィスで仕事を積み重ねる姿が映っていた。
「知らなかった……私、見下してた」
声は揺れていたが、迷いとは違う重さがあった。
「人はな、黙ってるときに、本当の手ざわりを見せる」
「……わかりました。何をすべきか」
「また来ます!」
菜名は勢いよく出ていった。

 昼。駅前の光が街を刻む。自動販売機の前で、菜名は上司と並んでいた。言葉は多くなかったが、動きは噛み合っていた。視線の先や手の運びが自然に重なり、仕事の流れが静かにつながっていく。数週間後、菓子折りを抱えた菜名が事務所に現れた。
「視野が広がった感じがします。周りが見えるようになりました」
「後輩も増える。少しずつお姉さんだな」
「部長さんの行動を見てると、何をしてるのか分かる気がして。私も、ちゃんと仕事しようって思えるようになりました」
「いい変化だ。だから人をよく見ろ。見下すな」
「しません。ちゃんと覚えておきます」
「惚れたのか?」
「尊敬です。必死についていくって決めました」
「……ただ、顔は好みじゃないです」
「罰があたるぞ」
散らばっていた音は、いつのまにか一つの調子にまとまり、室内に静かに残った。気づけば、俺の肩の力も抜けていた。
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