浦和探偵 ジン
第五話
「ジャガーとねこちゃん」
昼下がりの浦和の商店街は、相変わらず淡々としていた。太陽だけが機嫌よく、黒いジャガーXJのボンネットに遠慮なく光を落としている。磨き上げた塗装には空が映り込んでいた。その青を眺めていると、胸の奥の澱が少しだけ薄くなる。そのとき、杖をついた老女が、事務所の前で足を止めた。よた、よた、と近づき、ボンネットのエンブレムを見つめて目を細める。
「まあ……かわいいねぇ。この、ねこちゃん」
そっと撫でて満足した顔で商店街へ戻っていった。猛獣のエンブレムを「ねこちゃん」と呼ぶ無邪気さに、ジンの口元が少しだけ緩んだ。こういう触れられ方をする日は、大体悪くない。
その少し前の話だった。ゆうは商店街を歩いていた。買い物袋を持つ手に力が入る。頭の中には、運転のことばかり浮かんでいた。免許は取った。だが、ハンドルを握ると体が固まる。写真館の前で足が止まった。外で煙草を吸っていた男が声をかける。えいただった。
「ゆうちゃん、なんか最近……元気ないじゃん」
「えいちゃん……」
ゆうは少し笑った。
「あ、車が怖いんだって?」
「……うん」
「だったらさ、角の細道の探偵んとこ、行ってみなよ。あの人さ、ちゃんと話聞いてくれるし。自治会長も、八百屋のおやじも……みんな心配してるよ」
「そんな……」
「お悩み相談所みたいな感じだからさ、安心していいと思う」
ゆうは少し考えて、うなずいた。
事務所の前で立ち止まり、ゆうは一度深呼吸した。そして、ノックした。中に入ると、珈琲の香りがした。
えいたからの紹介の話が一通り終わったころ。
「……免許は取ったんです。でも、ハンドル握ると頭が真っ白になって……」
ジンは煙草に火をつけた。
「いつ頃から白くなる」
「教習所を出てすぐです」
「教習中は」
「平気でした」
「隣に教官がいたからか」
ゆうは黙ってうなずいた。
「私……車を凶器みたいに思ってしまうんです」
ジンは少しだけ笑った。
「怖がってるんだな。いいことだ。向いてない人間は怖がらない。怖がってるってことは、それだけ誠実だって証拠だ」
「でも……」
「怖いまま乗ればいい。慣れてから乗るんじゃない。怖がりながら慣れるんだ」
ジンは立ち上がり、外を指さした。
「乗ってみるか」
「……何にですか」
「俺のねこちゃんに」
ゆうが瞬きをした。
「ねこちゃん……?」
「さっきそう呼ばれた。悪い名前じゃない」
二人は浦和の外れの広い駐車場へ向かった。赤信号のたび、ゆうの肩が跳ねる。標識、歩行者、対向車。情報が一度に押し寄せてくる。
「……見てるだけで息苦しいです」
「情報が多すぎる。今は『揺れ』だけ感じろ。ブレーキの引っ張られる感じ、カーブの傾き。それだけ追えばいい」
ゆうは目を閉じた。
「……あ。楽です」
「全部見ようとするから苦しくなる」
駐車場に着いた。ジンは運転席を譲る。
「今の時間帯は車が一台もない、ここは世界で一番、失敗していい場所だ」
ゆうはハンドルを握った。指先が白くなるほど力が入っている。
「重いです」
「車じゃない。責任だ。その重さ、全部乗せてるだろ」
「……じゃあ」
「今は乗せなくていい。まず動かすことだけ考えろ」
ギアが入る。アクセルに触れる。車がわずかに動いた。
「……動いた」
ゆうの声が震える。
「動かしたんだ。ねこちゃんの喉鳴らしたのは、あんたの足だ」
数メートル進む。急ブレーキ。車が揺れる。
「ごめんなさい」
「誰に謝ってる?」
ゆうは答えられなかった。
「ブレーキは逃げ道じゃない。安心を作る道具だ」
ゆっくり円を描く。何度も失敗する。視線が下に落ちる。
「前を見ろ」
ゆうは遠くを見た。不思議とハンドルが安定した。
「……もう一回いいですか」
「付き合う。夜が明けるまででもな」
「夕方まででいいです」
「了解」
街灯が灯る頃、ゆうは滑らかな円を描いて車を止めた。エンジンが止まる。ゆうはハンドルに額をつけた。
「……できました」
「怖いか」
「はい」
「それでいい。その怖さは、最高の安全装置になる」
ゆうは泣き笑いでうなずいた。
「もっと早く来ればよかった」
「来た時が来る時だ」
ゆうが笑う。
「ジンさん、そういうこと言いますよね」
「文句か」
「刺さるんです」
帰り道、夕暮れの浦和をジャガーが静かに走る。ゆうが言った。
「ジンさん、この車、やっぱりねこちゃんでいいですか」
「好きにしな。猛獣も飼い主次第で猫になる」
「じゃあ今日だけ私が飼い主ですね」
「今日だけな」
短い沈黙。
「また乗せてもらえますか」
「腕上げてこい」
ゆうは少し考えて言った。
「今、親の車なんです。中古を探すの付き合ってもらえますか」
「了解だ」
ゆうを送り届けたあと、ジンは一人でハンドルを切った。夜の浦和の空は群青色だった。今日覚えた重さを乗せたまま、ジャガーは静かに夜を滑っていった。
昼下がりの浦和の商店街は、相変わらず淡々としていた。太陽だけが機嫌よく、黒いジャガーXJのボンネットに遠慮なく光を落としている。磨き上げた塗装には空が映り込んでいた。その青を眺めていると、胸の奥の澱が少しだけ薄くなる。そのとき、杖をついた老女が、事務所の前で足を止めた。よた、よた、と近づき、ボンネットのエンブレムを見つめて目を細める。
「まあ……かわいいねぇ。この、ねこちゃん」
そっと撫でて満足した顔で商店街へ戻っていった。猛獣のエンブレムを「ねこちゃん」と呼ぶ無邪気さに、ジンの口元が少しだけ緩んだ。こういう触れられ方をする日は、大体悪くない。
その少し前の話だった。ゆうは商店街を歩いていた。買い物袋を持つ手に力が入る。頭の中には、運転のことばかり浮かんでいた。免許は取った。だが、ハンドルを握ると体が固まる。写真館の前で足が止まった。外で煙草を吸っていた男が声をかける。えいただった。
「ゆうちゃん、なんか最近……元気ないじゃん」
「えいちゃん……」
ゆうは少し笑った。
「あ、車が怖いんだって?」
「……うん」
「だったらさ、角の細道の探偵んとこ、行ってみなよ。あの人さ、ちゃんと話聞いてくれるし。自治会長も、八百屋のおやじも……みんな心配してるよ」
「そんな……」
「お悩み相談所みたいな感じだからさ、安心していいと思う」
ゆうは少し考えて、うなずいた。
事務所の前で立ち止まり、ゆうは一度深呼吸した。そして、ノックした。中に入ると、珈琲の香りがした。
えいたからの紹介の話が一通り終わったころ。
「……免許は取ったんです。でも、ハンドル握ると頭が真っ白になって……」
ジンは煙草に火をつけた。
「いつ頃から白くなる」
「教習所を出てすぐです」
「教習中は」
「平気でした」
「隣に教官がいたからか」
ゆうは黙ってうなずいた。
「私……車を凶器みたいに思ってしまうんです」
ジンは少しだけ笑った。
「怖がってるんだな。いいことだ。向いてない人間は怖がらない。怖がってるってことは、それだけ誠実だって証拠だ」
「でも……」
「怖いまま乗ればいい。慣れてから乗るんじゃない。怖がりながら慣れるんだ」
ジンは立ち上がり、外を指さした。
「乗ってみるか」
「……何にですか」
「俺のねこちゃんに」
ゆうが瞬きをした。
「ねこちゃん……?」
「さっきそう呼ばれた。悪い名前じゃない」
二人は浦和の外れの広い駐車場へ向かった。赤信号のたび、ゆうの肩が跳ねる。標識、歩行者、対向車。情報が一度に押し寄せてくる。
「……見てるだけで息苦しいです」
「情報が多すぎる。今は『揺れ』だけ感じろ。ブレーキの引っ張られる感じ、カーブの傾き。それだけ追えばいい」
ゆうは目を閉じた。
「……あ。楽です」
「全部見ようとするから苦しくなる」
駐車場に着いた。ジンは運転席を譲る。
「今の時間帯は車が一台もない、ここは世界で一番、失敗していい場所だ」
ゆうはハンドルを握った。指先が白くなるほど力が入っている。
「重いです」
「車じゃない。責任だ。その重さ、全部乗せてるだろ」
「……じゃあ」
「今は乗せなくていい。まず動かすことだけ考えろ」
ギアが入る。アクセルに触れる。車がわずかに動いた。
「……動いた」
ゆうの声が震える。
「動かしたんだ。ねこちゃんの喉鳴らしたのは、あんたの足だ」
数メートル進む。急ブレーキ。車が揺れる。
「ごめんなさい」
「誰に謝ってる?」
ゆうは答えられなかった。
「ブレーキは逃げ道じゃない。安心を作る道具だ」
ゆっくり円を描く。何度も失敗する。視線が下に落ちる。
「前を見ろ」
ゆうは遠くを見た。不思議とハンドルが安定した。
「……もう一回いいですか」
「付き合う。夜が明けるまででもな」
「夕方まででいいです」
「了解」
街灯が灯る頃、ゆうは滑らかな円を描いて車を止めた。エンジンが止まる。ゆうはハンドルに額をつけた。
「……できました」
「怖いか」
「はい」
「それでいい。その怖さは、最高の安全装置になる」
ゆうは泣き笑いでうなずいた。
「もっと早く来ればよかった」
「来た時が来る時だ」
ゆうが笑う。
「ジンさん、そういうこと言いますよね」
「文句か」
「刺さるんです」
帰り道、夕暮れの浦和をジャガーが静かに走る。ゆうが言った。
「ジンさん、この車、やっぱりねこちゃんでいいですか」
「好きにしな。猛獣も飼い主次第で猫になる」
「じゃあ今日だけ私が飼い主ですね」
「今日だけな」
短い沈黙。
「また乗せてもらえますか」
「腕上げてこい」
ゆうは少し考えて言った。
「今、親の車なんです。中古を探すの付き合ってもらえますか」
「了解だ」
ゆうを送り届けたあと、ジンは一人でハンドルを切った。夜の浦和の空は群青色だった。今日覚えた重さを乗せたまま、ジャガーは静かに夜を滑っていった。