浦和探偵 ジン
第八話
「三つの時間」
 
 ある目的のため今日だけ、この事務所は喫茶「方舟」だ。いつもと違うのはただ一つ、入り口の手書きの看板だけ。もちろん、黒板看板は、俺の手作りだ。浦和商店街の奥、元スナックの古い建物、入口の看板には白い文字。浦和探偵事務所、SAKURAI JIN。夜明け前の光が、窓ガラスを青くしていた。豆を挽く音の代わりに、椅子に縛られた男の荒い息が、室内の空気をざらつかせている。スーツの袖は乱れ、靴は片方だけ床に転がっていた。投資詐欺グループの幹部。ゆきの息子の依頼で、ここへ誘導した。
カシャ。静かなシャッター音が鳴った。壁際でカメラを構えていたのは、えいた。
「はい、これで顔バッチリっすね。あとで知らないとか言われても、困るからね」
液晶を確認しながら、もう一枚。縛られた男、室内の様子、状況。証拠写真として十分だった。男が苛立った声を出す。
「なんだお前」
「駅前の写真館です。……こういうのって、ちゃんと残しとくの大事なんで。あとで言った言わないになると面倒じゃないですか。証拠は多いほうが安心だし」
「助かったよ、えいちゃん」
「いいっすよ。こういうの、滅多にないですしね。……朝から重たい絵っすけどね。データは押さえたんで、現像もしときますよ。俺は店開けなきゃなんで一回戻ります。あとで写真、持ってきますよ」
「頼む」
「了解っす」
えいたは手をひらひら振った。「じゃ、またあとで」。ドアの鈴が小さく鳴った。静けさが戻る。
「……ジンさん。本当に……すみません」
震えた声が、カウンターの上に落ちた。ゆきは立ったまま、視線を下げている。俺は煙草に火をつけた。赤い火が静かに灯る。煙が細く天井へ流れていく。
 「謝る相手、ちょっと違うな。いいか。過去も現在も未来も、全部同じ場所にある。どれも切り離せない。ある男の話をする。健康診断の数値が悪くてな、なんとなく走り始めた。最初は一人、そのうち夫婦で走るようになり、大会に出て、いつしかホノルルを走ってた。走るかって思った瞬間、ホノルルを走る未来も、一緒に生まれてた」
男を見る。
「逆に、大学生が軽い気持ちでオレオレ詐欺に手を出した瞬間、逮捕されて人生が折れる未来も、その場で決まる。選ぶってのは、そういうことだ。一秒の揺らぎが、未来の形を作る」
ゆきの肩が震えた。
「なぁ、ゆき。昔、誰にでも見舞いや香典を配ってた日があったろ」
「……はい」
「劇場に逃げた夜も」
「……覚えてます」
「あれも全部、お前の航路の続きだ」
俺は三つのカップに珈琲を注いだ。ゆき、息子、俺。男の分は作らない。
「優しさから思考を切り離すと、人は簡単に、そして残酷に間違える。悪意がなくても、だ。考えるってのは、誰かを傷つけないために、自分を止める力だ」
男が怒鳴った。
「関係ねぇだろ! 帰せ!」
「人の心が残ってるなら、黙って聞け。お前がゆきを餌にした瞬間、ここで縛られてる未来も決まった。顔も写真も、被害者の署名も、もう揃ってる」
男は黙った。
ゆきは、選ぶことから逃げ続けてきた。見栄と不安を、香典や外食で埋めた。気づけば、家族は離れ、金は尽き、病を得た。判断力が落ちた頃、誘われ、騙され、退職金も消えた。そして今日、息子が泣きながら俺のところへ来た。
調べてわかったことがある。ゆきのそばには、ずっと静かに心配し続けた友人がいた。どんな時も何も言わず、ただそこにいた。その灯は、まだ消えていない。
 「未来は二つだ。誰かに優しくした未来と、しなかった未来。それだけだ」
ゆきが言った。
「……その友人に、会っていいんでしょうか」
「なぜ会っちゃいけない」
ゆきはしばらく黙っていた。カップの縁を見つめたまま、小さく言う。
「迷惑を……ずっと、かけてきたから」
「迷惑をかけた相手にこそ、顔を見せに行け。人間ってのはな、迷惑をかけ合って生きてる。それでも残ってる縁ってのは、案外、切れないもんだ。会いに行け。それが進路を正す、最初の一歩だ」
ゆきは小さくうなずいた。
 男を警察へ届けた帰り道、夜と朝の境目の空。ハンドルを叩く。もどかしいゆきの人生の長い時間を振り返っていた。
「……前が見えねぇじゃねぇか。神様ってのはいねぇのか」
事務所に戻るころ、空はすこし白んでいた。
 その少し前、ドアが静かに開いた。えいたが顔を覗かせる。
「……あれ、誰もいないな」
カメラバッグを降ろし、ポケットから煙草を取り出して火をつける。煙が天井へ流れる。現像した写真の封筒を取り出し、中身を確認する。縛られた男、泣いていたゆき、黙っていた息子、珈琲を淹れるジン。えいたは一枚を見て笑った。
「……時間ってさ、ほんとに止まるんだよな」
煙草を灰皿に押しつけ、封筒をカウンターに置いた。
「ま、いっか」
軽く手を振るようにして店を出る。ドアが閉まる音だけが残った。
 そのあとで、ドアが開いた。若い女の子が二人、顔を覗かせる。
「ねえ、ここ喫茶店?」
「なんか違くない?」
「珈琲しか出ないが、それでいいかい」
「はーい!」
「船長みたい!」
「アイアイサー」
二人は笑った。張り詰めていた空気が、少し緩む。俺は珈琲を淹れる。湯気が細く立つ。その時、カウンターの端に、封筒が置かれているのに気づいた。開く。中には写真。縛られた男、泣いているゆき、黙っている息子、煙草を持つ俺。現像したばかりの写真だった。俺は一枚取り出し、少しだけ眺める。
煙草に火をつける。カウンターの上には、一枚の写真だけが残る。朝の光が、ゆっくり差し込んだ。写真の中では、まだ夜が終わっていなかった。もう、朝だった。
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