海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
幾つかの質問に答え、その【審理】も終盤となった頃に。最も重要で、そして⋯簡単な質問が待っていた。

「名は?⋯お前は、何者だ?」

秦広王たる者が知らぬ筈もないであろうが、待ってました、の質問に⋯意気揚々と答えるつもりで、口を開いた。

「私の名前は⋯⋯⋯」

洞窟に響いたのは、か細く、尻すぼみになった⋯私の声。

私の名前⋯は?

言おうとするたびに、喉の奥に何かが詰まっているかのように、言葉が出ない。いや、それどころか⋯思い浮かばない。

「私は大学生で、人文学を専攻していて⋯」
なんて言う⋯大学だっけ。

「年は19。今年で20歳を迎える」
⋯いつ生まれたんだっけ?今は令和で⋯。

「長年サッカーをしていて」
⋯そう、ずっと。でも、どれくらい?

ポロ、ポロ、と埋まっていたパズルのピースが抜け落ちていくかのように⋯記憶が曖昧になって崩れていく。

「大事な家族がいた。そう、3人?」
誰と⋯誰と、誰?

「友達、仲間がいっぱいいて⋯大切な幼なじみも」
間違いなくいたよね、でもどんな顔だった⋯?

「大好きだった犬もいた」
⋯名前は?

ここまで言って。急に、言葉が出なくなった。
男は聞いているのか、いないのか、返事も相槌をすることなく一通り話させてから⋯ゆっくりと口を開いた。

「それで、何者だ?」

再び降りてきた冷たい声に。
私は精一杯の思いを込めて、答える。

「何者だと問われても、私は⋯、私でしかありませ
ん。名前は、名前は⋯⋯覚えていません」

そう、嘘、偽りなく。
⋯潔く。

「⋯⋯わかった」

これが最後の審判だったのだろう。
大事な局面で、一番の失態をしてしまったことを⋯後悔する。

男はじり、じりと私のすぐ側まで歩み寄り、かがんで、目線の高さを合わせる。

おかげで目の前で、麗しきご尊顔を拝見することに。
⋯ゴクリ、と息を飲む。

肩を急に掴んだかと思うと、その、吸い込まれるほどに綺麗なグレーの瞳で真っ直ぐ私を捕らえる。

その瞬間、麻痺したかのように体も思考も固まって⋯息さえすることも叶わなくなった。

「お前の目的はなんだ?」

「⋯⋯」
(知らない場所に突然来て、目的も何も⋯。むしろ、私を捕らえる理由を教えて欲しい)

「偽名すら語れないのか?」
(思い出せないの、ホント。嘘言ったら地獄行きでしょう?)

「そんなに死にたいのか?」
(もう死んでるだろう者に対して、なんていう追い打ち!ギブ、息できなくて死ぬ)

男の手が肩をぐっと突き放し、私の身体が岩場に倒れると同時に、溺れるような苦しさから⋯一気に解放される。
乱れた呼吸を必死で整えながら、また見下ろす男に⋯顔を向けた。

AI生成されたようなその造形美に似合わぬ鬼畜さ。
頭の中で、警告音が鳴る。
さながら、試合中のホイッスル、危険行為に対するイエローカード提示だ。

依然として冷酷無情な対応が続く。

(フク)。この者を捕らえよ」
⋯と、洞窟の入口から顔を覗かせていたあの少年へと⋯突如命を下したのだ。

「ちょっと待ってください。私が一体何を?」
抵抗するものの、男が私の顎をぎゅっと掴み取って⋯口の片方だけを吊り上げては妖艶に笑う。
まさに、悪魔の微笑み。

「お前の罪?知りたいか?」

「⋯⋯はい」

「まずひとつ、許可なく、我々の管轄する緩衝地へ潜入したこと」

「緩衝地⋯?」

「2つ目、正体を見せないこと」

「⋯⋯⋯」

「それから、福を突き飛ばしたであろう?」

「それは⋯」

「いずれも重罪だ。お前を法で裁くゆえ、わが国へ連れていく」

「⋯⋯待って、まだ話せることが⋯」

「福。着替えさせたら外へ連れ出せ」

こうして⋯初の審理は終わりを迎えた。
気づけば、男はまた風の飛来と共に⋯姿を消して。

とてとて、と駆け寄ってきた少年が、また毒を吐く。

「お前、その破廉恥な衣はどうかしてるぞ。若い女子(おなご)が足を出すなんて、初めて見た。恥を知らないのか?とにかく早く脱いで、コレに着替えろ」

「⋯⋯⋯?」
私は自分の格好を見て、ハッとする。

この服は、確かに私が持っている服だ。
ショートパンツから出ているのは、相変わらずのししゃもで⋯すり傷だらけの足。

なんで⋯こんなに傷だらけなのかは、わからない。

「痛むのか?」

「足?ううん、このくらいならしょっちゅうだったから⋯」

「胸の傷のことだ。自分が深手負ってることすら気づいてないのか」

「え?」

少年に言われて、私は自分の胸元を確認する。
閉まっているトラックジャケットのチャックを下げて、白いTシャツが露わになろうとした⋯、その時に。

泥と血が水に晒されたシミになったような⋯薄汚れたソレに、思わず言葉を失った。おまけに、左の胸元に穴が⋯あいている。

おろるおそる、Tシャツのネック部分を掴んで覗き見ると。

えぐれたような傷跡が、確かにあった。

「痛くないけど⋯、これ⋯」

「傷は塞いだし、痛み止めを飲ませたからな。感謝しろよ」

「あなたが?」

「俺は命に従って介抱しただけだ。さっきだって心気を回復させる貴重な薬を持ってきたのに、なんて奴だ」

すると、さっきの人が助けてくれたのか?

「こんな妙な格好して、あんな危険な所に来るおなごなど見たこともない。お前のその履物だって、見たことがないぞ。相当値が張るんじゃないか?こんな丈夫で派手な色遣いの履物など、どこを探してもない」

少年は、岩下に置かれた私のトレシューを指さす。

「⋯⋯トレーニングシューズのこと?」

「とれ⋯にんぐ?よくわからないけど、何の素材で作ったのだ?」

彼は興味津々、と言った様子で、靴を手に持っては⋯ぐるぐると回して、その全体を穴が空くほどに観察する。

「ええと⋯。合皮ではなかったはず。カンガルーの皮かな」

「かんがる?知らぬな」

「動物のカンガルー、知らないの?⋯あれ?あ、違ったかも。牛革だったかも」

「ぎゅう?」

「牛の皮!」

少年の手から、靴が滑り落ちて。
おそるおそる⋯私を見た。

「⋯⋯⋯動物の皮を剥いだのか?」

「え?いや、製造過程はちょっとわからないけれど⋯多分?」

「⋯⋯そうか」

以降、少年はなぜか無口になった。

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