海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
5.5章 〜The other side of the story〜
追放者の遺産(レガシー)を穿つ異端の盟約
一方―⋯
浮游は単身、ある地を訪れていた。
「……禹后の使いか。この地に何の用だ、崑崙の番人よ」
極寒の北溟、猛吹雪の中から現れたその邑の長は、呪術的な仮面の下から浮游を睨みつける。
ここは⋯まだ燭陰の熱が及んでいないのか。はたまた―⋯水面下で抗っているのか。理由は分からないが。まだ時節を辛うじて保っている。
浮游は男の質問に答えない。ただ、凍てつくように鋭い瞳で、長の足元の地面を一瞥した。
と、その時であった。彼の胸に―⋯突如峻烈な痛みが走る。それは⋯哀なき海棠が、死者を弔う度に襲ってくる―⋯悲痛の念であった。
奪った哀の感情を、浮游が肩代わりする。
彼のその瞳に、物悲しそうな陰が映し出されるのを、長は見ていた。
けれども―⋯それは一瞬。彼は全てを呑み込むように一切の慈悲を排すると、硝子玉のような無機質な瞳を―⋯再び向けて、一瞬にして、足元の凍土に一本の矢を突き立てたのだった。
そこには、かつて共工が治水に用いたとされる耒耜 (らいし)の跡――古代の巨大な掘削道具の記憶が眠っていた。
「王の使いではない。かつてこの地で過ごした男の息子としてここに来た」
その言葉に、鬼方の長が息を呑む。
「⋯息子⋯だと?一体お前は、誰のことを⋯」
長がそう言いかけた時だった。
一点の矢傷がまるで這うように地面に亀裂をつくり―⋯、眠っていた記憶が、隠された意思が、そこに、露わになった。
「獯鬻の長よ。中原の后を無視し、私を見限るのも勝手だ。だが、この地にも迫る燭陰の熱、そして冥界で凍える死者たちの嘆き――。それを『なかったこと』にできるほど、お前たちは薄情か?」
「⋯⋯⋯」
獯鬻の長は、足元の耒耜をー⋯見据える。
一方の浮游の視線は、もはや「支配」ではなく、「共犯」を求めていた。
「お前たちの誇りなど分からぬ。だが、禹后にかような僻地に追いやられてもなお、生き抜いているであろう?この二倍の重みがある嘆きを終わらせるためなら、私は崑崙の座も、この命も、喜んで泥の中に投げ捨てよう。……私の名は…浮游。…共工の意を継ぐ者たちよ。共にこの地獄を『正解』へと書き換えるか、ここで熱に焼かれて果てるか。選べ」
「お前は―⋯、あの、浮游であるのか?」
長の瞳の奥で―⋯小さな2人の少年が泥だらけになって遊ぶ。そんな光景が⋯蘇る。
「この地を焼き、お前たちの居場所を奪う燭陰の熱。それを冥界へ流し込むための『道』を掘れ。それが⋯彼への弔いとなるであろう。⋯かつてこの地を愛した共工の理を利用せよ」
浮游の瞳に宿る、冷酷なまでの合理性と、その奥に隠された「祈り」。
本来の陸吾としての威厳と―⋯浮游という1人の男としての生き様。
鬼方の長は、その鋭すぎる双眸の中に、自分たちが守り続けてきた 「異端の誇り」が正しく評価されていることを見抜く。浮游の瞳に宿る「二倍の哀しみ」に、自分たちの誇りを託すに足りる執念を見出したのだった。
「后の慈悲など不要。…俺たちが従うのは、共工が認めたその知略だけだ。………面白い。禹后の法ではなく、 追放者の怨念で世界を救おうというのか。よかろう、崑崙の陸吾。いや、浮游よ。お前のその『すべてを見通す冷たい目』に、我らの命を預けてやる」
浮游は単身、ある地を訪れていた。
「……禹后の使いか。この地に何の用だ、崑崙の番人よ」
極寒の北溟、猛吹雪の中から現れたその邑の長は、呪術的な仮面の下から浮游を睨みつける。
ここは⋯まだ燭陰の熱が及んでいないのか。はたまた―⋯水面下で抗っているのか。理由は分からないが。まだ時節を辛うじて保っている。
浮游は男の質問に答えない。ただ、凍てつくように鋭い瞳で、長の足元の地面を一瞥した。
と、その時であった。彼の胸に―⋯突如峻烈な痛みが走る。それは⋯哀なき海棠が、死者を弔う度に襲ってくる―⋯悲痛の念であった。
奪った哀の感情を、浮游が肩代わりする。
彼のその瞳に、物悲しそうな陰が映し出されるのを、長は見ていた。
けれども―⋯それは一瞬。彼は全てを呑み込むように一切の慈悲を排すると、硝子玉のような無機質な瞳を―⋯再び向けて、一瞬にして、足元の凍土に一本の矢を突き立てたのだった。
そこには、かつて共工が治水に用いたとされる耒耜 (らいし)の跡――古代の巨大な掘削道具の記憶が眠っていた。
「王の使いではない。かつてこの地で過ごした男の息子としてここに来た」
その言葉に、鬼方の長が息を呑む。
「⋯息子⋯だと?一体お前は、誰のことを⋯」
長がそう言いかけた時だった。
一点の矢傷がまるで這うように地面に亀裂をつくり―⋯、眠っていた記憶が、隠された意思が、そこに、露わになった。
「獯鬻の長よ。中原の后を無視し、私を見限るのも勝手だ。だが、この地にも迫る燭陰の熱、そして冥界で凍える死者たちの嘆き――。それを『なかったこと』にできるほど、お前たちは薄情か?」
「⋯⋯⋯」
獯鬻の長は、足元の耒耜をー⋯見据える。
一方の浮游の視線は、もはや「支配」ではなく、「共犯」を求めていた。
「お前たちの誇りなど分からぬ。だが、禹后にかような僻地に追いやられてもなお、生き抜いているであろう?この二倍の重みがある嘆きを終わらせるためなら、私は崑崙の座も、この命も、喜んで泥の中に投げ捨てよう。……私の名は…浮游。…共工の意を継ぐ者たちよ。共にこの地獄を『正解』へと書き換えるか、ここで熱に焼かれて果てるか。選べ」
「お前は―⋯、あの、浮游であるのか?」
長の瞳の奥で―⋯小さな2人の少年が泥だらけになって遊ぶ。そんな光景が⋯蘇る。
「この地を焼き、お前たちの居場所を奪う燭陰の熱。それを冥界へ流し込むための『道』を掘れ。それが⋯彼への弔いとなるであろう。⋯かつてこの地を愛した共工の理を利用せよ」
浮游の瞳に宿る、冷酷なまでの合理性と、その奥に隠された「祈り」。
本来の陸吾としての威厳と―⋯浮游という1人の男としての生き様。
鬼方の長は、その鋭すぎる双眸の中に、自分たちが守り続けてきた 「異端の誇り」が正しく評価されていることを見抜く。浮游の瞳に宿る「二倍の哀しみ」に、自分たちの誇りを託すに足りる執念を見出したのだった。
「后の慈悲など不要。…俺たちが従うのは、共工が認めたその知略だけだ。………面白い。禹后の法ではなく、 追放者の怨念で世界を救おうというのか。よかろう、崑崙の陸吾。いや、浮游よ。お前のその『すべてを見通す冷たい目』に、我らの命を預けてやる」