海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
やがて―⋯軍営からやってきた1人の男が、この滑稽なやり取りを見ながら「有昧伯よ。何をしているのだ?」と声をかけてきた。
私の目の前に―⋯黒陶の杯が差し出される。
「白湯に、石蜜(※蜂蜜のこと)と塩―⋯。希少で高価な物を容易く求めるとは―⋯何処の富豪か?」
男が差し出したその杯から―⋯湯気が上がっていた。
力を入れたらすぐにでも割れてしまいそうな、薄作りの黒陶。
(こんな繊細な技術が、既にあるとは)
その中から⋯蜂蜜のほのかな甘い香りが漂っている。
「⋯⋯。ありがとうございます」
希少で高価であると言いながら、こうも高級そうな器に入れてアッサリと提供するこの人は―⋯?
「熱っ」
「おっと失礼。まだ淹れたてだ。すまない、適温がわからず」
彼は1度手元に戻し、ふー⋯と息を吹きかけ、暫し冷ました後に再度私へと差し出した。
「⋯ありがとうございます」
慎重に、【経口補助液】を口へと運ぶ。
男の視線が―⋯その口元にあることは間違いなくて、ただの塩分・水分補給の行為で緊張せねばならないなんて⋯。
この男、琥珀色の華やかな衣を身に纏い、目元は人たらしな垂れ目。なのに⋯その奥には、まるで値踏みするような⋯見極めようとする底知れぬ怖さが、同居する。
そう。この軍勢を率いていた男だ。
私はゴクリ、ゴクリと喉を鳴らして一気にそれを飲み干す。
「ご馳走様でした。―⋯ところで、有昧伯。この方は―⋯」
軍営基地に、まるで店舗を開いたかのように整理歴然と並べられた大量の物資。風に靡く―⋯【商】の旗。
次の時代の王朝、商(殷)と縁ある者なのか?いずれにせよ、有昧后と懇意にしていることは間違いないようだ。
「そんなに警戒しなくても。ただの価値を運ぶ旅人だと思ってもらえれば。名は―⋯契。君が飲んだ物は、どうやらこの熱を凌ぐ薬のようだが―⋯すぐに手筈を整えよう。門外不出ではないのなら、方方に配っても良いか?」
もうこの経口補助液に目を付けたの?なんという仕事の早さだ。
「配る?―⋯高価だと言っていましたが、貴方にそれができるのなら、願ってもない」
待て。
この人、契と名乗ったけど―⋯そうすると、商(殷)王朝の始祖であり、後に巨大な文明を築く一族の、初代リーダー?!
大物どころの騒ぎではない。
治水事業の功績で商に封ぜられたこの者は、夏王朝における―⋯役人であり、五教を伝えた教育者の側面もある。
でも待てよ。まだ、【商】という名にすら―⋯なっていないはずでは?
⋯有昧后。
この人を動かしたのであろう貴方こそ、何者なの?歴史を知る者としては、末恐ろしい人選をしていると思うのだけれど。
「......なるほど。君は『価値』を貯め込むより、『流す』ことに意味を感じるのだな。同感だ。」
契はその垂れ目をにこり、と更に細めて穏やかに語る。
「君であろう?羊脂と灰と塩を混ぜて、とんでもない物を作り上げたのは。石鹸なる物はこの世で誰も見たこともない、価値ある発見だ」
「⋯⋯。価値あるものかどうかは、それを必要とする者にしか感じ得ないものでしょう?ああ、そうだ。契さん。何も無いのもアレですので⋯礼にコレを差しあげます」
「これは―⋯?」
私は、先程の死者が握っていた【黒い塊】を彼の手に置いた。
この歪な石の軽さ驚きながらも、彼はじっと観察する。
「価値は見出す物でもあるでしょう?私には不必要な物ですが―⋯」
「⋯⋯⋯」
「それは、先程命を失った人が、最期まで必死に掴んで離さなかった物です。……契さん、貴方が纏うその琥珀色の価値は、誰かの欲を満たすためのものじゃない。民が握りしめた『命の輝き』そのものなんです。……どうか、それを無下にしないでください」
「⋯⋯⋯!」
「それから⋯ここでこれ以上油を売っている訳にはいきません。契さん。―⋯北溟の民の願いを、お考えに。⋯有昧伯、休憩は終わり。このままでは、解決にならない。早急に―⋯熱を治める布陣を。―⋯私と共に、ちょっとあちらへ」
私の目の前に―⋯黒陶の杯が差し出される。
「白湯に、石蜜(※蜂蜜のこと)と塩―⋯。希少で高価な物を容易く求めるとは―⋯何処の富豪か?」
男が差し出したその杯から―⋯湯気が上がっていた。
力を入れたらすぐにでも割れてしまいそうな、薄作りの黒陶。
(こんな繊細な技術が、既にあるとは)
その中から⋯蜂蜜のほのかな甘い香りが漂っている。
「⋯⋯。ありがとうございます」
希少で高価であると言いながら、こうも高級そうな器に入れてアッサリと提供するこの人は―⋯?
「熱っ」
「おっと失礼。まだ淹れたてだ。すまない、適温がわからず」
彼は1度手元に戻し、ふー⋯と息を吹きかけ、暫し冷ました後に再度私へと差し出した。
「⋯ありがとうございます」
慎重に、【経口補助液】を口へと運ぶ。
男の視線が―⋯その口元にあることは間違いなくて、ただの塩分・水分補給の行為で緊張せねばならないなんて⋯。
この男、琥珀色の華やかな衣を身に纏い、目元は人たらしな垂れ目。なのに⋯その奥には、まるで値踏みするような⋯見極めようとする底知れぬ怖さが、同居する。
そう。この軍勢を率いていた男だ。
私はゴクリ、ゴクリと喉を鳴らして一気にそれを飲み干す。
「ご馳走様でした。―⋯ところで、有昧伯。この方は―⋯」
軍営基地に、まるで店舗を開いたかのように整理歴然と並べられた大量の物資。風に靡く―⋯【商】の旗。
次の時代の王朝、商(殷)と縁ある者なのか?いずれにせよ、有昧后と懇意にしていることは間違いないようだ。
「そんなに警戒しなくても。ただの価値を運ぶ旅人だと思ってもらえれば。名は―⋯契。君が飲んだ物は、どうやらこの熱を凌ぐ薬のようだが―⋯すぐに手筈を整えよう。門外不出ではないのなら、方方に配っても良いか?」
もうこの経口補助液に目を付けたの?なんという仕事の早さだ。
「配る?―⋯高価だと言っていましたが、貴方にそれができるのなら、願ってもない」
待て。
この人、契と名乗ったけど―⋯そうすると、商(殷)王朝の始祖であり、後に巨大な文明を築く一族の、初代リーダー?!
大物どころの騒ぎではない。
治水事業の功績で商に封ぜられたこの者は、夏王朝における―⋯役人であり、五教を伝えた教育者の側面もある。
でも待てよ。まだ、【商】という名にすら―⋯なっていないはずでは?
⋯有昧后。
この人を動かしたのであろう貴方こそ、何者なの?歴史を知る者としては、末恐ろしい人選をしていると思うのだけれど。
「......なるほど。君は『価値』を貯め込むより、『流す』ことに意味を感じるのだな。同感だ。」
契はその垂れ目をにこり、と更に細めて穏やかに語る。
「君であろう?羊脂と灰と塩を混ぜて、とんでもない物を作り上げたのは。石鹸なる物はこの世で誰も見たこともない、価値ある発見だ」
「⋯⋯。価値あるものかどうかは、それを必要とする者にしか感じ得ないものでしょう?ああ、そうだ。契さん。何も無いのもアレですので⋯礼にコレを差しあげます」
「これは―⋯?」
私は、先程の死者が握っていた【黒い塊】を彼の手に置いた。
この歪な石の軽さ驚きながらも、彼はじっと観察する。
「価値は見出す物でもあるでしょう?私には不必要な物ですが―⋯」
「⋯⋯⋯」
「それは、先程命を失った人が、最期まで必死に掴んで離さなかった物です。……契さん、貴方が纏うその琥珀色の価値は、誰かの欲を満たすためのものじゃない。民が握りしめた『命の輝き』そのものなんです。……どうか、それを無下にしないでください」
「⋯⋯⋯!」
「それから⋯ここでこれ以上油を売っている訳にはいきません。契さん。―⋯北溟の民の願いを、お考えに。⋯有昧伯、休憩は終わり。このままでは、解決にならない。早急に―⋯熱を治める布陣を。―⋯私と共に、ちょっとあちらへ」