海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
有昧后は黙ったまま、誰もいない所まで私を連れ出すと―⋯。近くの岩場へと、ストンと座らせた。

​泥濘の中で、仲間たちが奮闘する声と―⋯飛び交う鳥の悲痛とが、ここまで届いてきた。

「ごめん。効率が悪いと言いながら⋯長居してしまった」
ここは、素直に謝ってみる。

浮游がそれに反応することは、ない。
彼は私の背後に立ち、ふっと髪に触れたかと思うと。
結っていたポニーテールがほどけて、一斉に肩にふわりと降りてきた。
前髪を上げていた、ヘッドゴムがゆるりと抜かれていく。

「⋯⋯。革紐が伸びちゃって。何度も結び直してるんだけど、この湿気と熱じゃすぐ緩むんだよね」

彼が手渡してきた青銅の鏡を覗き込みながら、私は、手櫛で髪を梳いて⋯手を止めずに、言い訳する。

指揮官が髪を振り乱しているのは、合理的じゃない。視界は遮るし、何より「余裕がない」と周囲に思わせるのはマイナスだ。
知首たる威厳を⋯損なわせるな、と言いたいのであろう。

確かに。ここに映っている自分は泥々でボサボサだった。

梳いていたその手が、彼の手によって止められ、下ろされていく。
甲に―⋯有昧后の温かな温もり。
けれどそれは、一瞬で解かれてしまう。

「⋯⋯⋯」
そうして、何も話すことなく。
彼は、繊細な手つきでそっと⋯髪を後方へと梳き纏めていく。

武骨な手が、器用に―⋯心地よいほどに。

普段乱暴に触れるその手と同じものとは思えないな、とぼんやりとその動きを感じとっていくのであった。

鏡越しで見るその姿は、映画のワンシーンのようだった。
まるで初陣前に⋯身なりを整える儀式のような、そんなシーンを客観的に眺めているような。


風の音に紛れて、何かを裂くような音が聞こえた。

「⋯⋯?」
思わず鏡の中を見ると―⋯、滅紫色の細長い布を口にくわえて、真剣なグレーの眼差しを向けた男と、目と目が合った。
風に揺れて―⋯その布が私の頬を掠める。

なめらかな質感。
后だけが纏える、上質な⋯肌触り。

彼の手が―⋯私の頬を包み込むようにして、くるりと方向を変えられて行くのと同時に、絡んでいたそれを、するりと抜きとっていった。


「浮游。貴方はほんっと合理主義だね」

「⋯⋯⋯」

前にもこんなことがあった。地図を書こうとした時、最も早く効率的に叶える為に⋯己の籠手を捨て与えた。
今度は―⋯革紐代わりの、滅紫の衣か。
何とも、せっかちなこの者らしい選択だ。

けれどそうだ、と認めもしない。一体、何を考えているのだろう。

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