海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
かつて北の邑で「浮游」と呼ばれていた頃、他者の胸の内を映し出していた彼の指先が、今は物言わぬ死者の額へと、吸い寄せられるように伸びていく。魂はとうに散り、そこには読むべき「心」など存在しないはずだった。
だが、この者の大きく見開かれた琥珀色の瞳に映る、冷酷な男(自分)に。妙な縁を―⋯感じたのかもしれない。
そして―⋯何千年もの間、光も届かぬ闇の中で、ただひたすら網膜に焼き付けた『映像』が、浮游の指先を通じて逆流を始めた。
この者の記憶ではない。
瞳という物体が無機質に映した―⋯記録だ。
瞳のレンズ。そこに最初に映っていたのは、今まさに目の前で覗き込んでいる、冷徹な『有昧の后・陸吾』の顔だった。煤けた氷室の光に照らされた、感情のない自分の容貌。
映像が急速に巻き戻る。数千年の闇が、一瞬の火花の明滅のように通り過ぎる。氷が溶ける前の完全な暗黒。そして、その暗黒をさらに遡った先に、光が現れる。
次に映ったのは―⋯
凍える闇のなかで、蠢く巨大な岩のような神軀。鐘山の主・燭陰だ。世界を維持する龍神が、手傷を負った彼の肉体をこの氷の封印の中へと押し込め、その壁の向こうへと遠ざかって消えていく。
映像はさらに激しく巻き戻り、燭陰の姿さえも消え去る。次の瞬間、視界は急激に「崑崙の南」の、瑞々しい光と血の赤に染まった大地。
逆流する時間の果て、彼の瞳が最後に映し出したのは、必死の形相でこちらへ手を伸ばし、今にも叫び声を上げそうな、若き日の【陸吾】の姿だった。
静止画のように、留まり続ける映像は―⋯若き日の自分の姿は。
この者が死後に見た、最初の映像だ。
「⋯葆江⋯?」
その、残像は―⋯浮游の中に眠っていた記憶を一気に呼び覚ましていく。
相柳や共工への想いもそうであった。大切だったはずなのに。
天帝から哀の感情を奪われた代償は―⋯その想いの欠片は、思わぬ時に思わぬ形で戻って来るのだ。
この者の名前は―⋯葆江。かつて崑崙にて、陸吾の臣下であった―⋯神だ。
そして浮游は知っている。この者が絡む事件のことを、その顛末を、誰よりも知っている筈だった。
けれど―⋯知らなかったのだ。
だが、この者の大きく見開かれた琥珀色の瞳に映る、冷酷な男(自分)に。妙な縁を―⋯感じたのかもしれない。
そして―⋯何千年もの間、光も届かぬ闇の中で、ただひたすら網膜に焼き付けた『映像』が、浮游の指先を通じて逆流を始めた。
この者の記憶ではない。
瞳という物体が無機質に映した―⋯記録だ。
瞳のレンズ。そこに最初に映っていたのは、今まさに目の前で覗き込んでいる、冷徹な『有昧の后・陸吾』の顔だった。煤けた氷室の光に照らされた、感情のない自分の容貌。
映像が急速に巻き戻る。数千年の闇が、一瞬の火花の明滅のように通り過ぎる。氷が溶ける前の完全な暗黒。そして、その暗黒をさらに遡った先に、光が現れる。
次に映ったのは―⋯
凍える闇のなかで、蠢く巨大な岩のような神軀。鐘山の主・燭陰だ。世界を維持する龍神が、手傷を負った彼の肉体をこの氷の封印の中へと押し込め、その壁の向こうへと遠ざかって消えていく。
映像はさらに激しく巻き戻り、燭陰の姿さえも消え去る。次の瞬間、視界は急激に「崑崙の南」の、瑞々しい光と血の赤に染まった大地。
逆流する時間の果て、彼の瞳が最後に映し出したのは、必死の形相でこちらへ手を伸ばし、今にも叫び声を上げそうな、若き日の【陸吾】の姿だった。
静止画のように、留まり続ける映像は―⋯若き日の自分の姿は。
この者が死後に見た、最初の映像だ。
「⋯葆江⋯?」
その、残像は―⋯浮游の中に眠っていた記憶を一気に呼び覚ましていく。
相柳や共工への想いもそうであった。大切だったはずなのに。
天帝から哀の感情を奪われた代償は―⋯その想いの欠片は、思わぬ時に思わぬ形で戻って来るのだ。
この者の名前は―⋯葆江。かつて崑崙にて、陸吾の臣下であった―⋯神だ。
そして浮游は知っている。この者が絡む事件のことを、その顛末を、誰よりも知っている筈だった。
けれど―⋯知らなかったのだ。