海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
「葆江よ。ずっと待っていたのだな」

目を閉じることなく、誰からも弔われることもなく、けれどこの冷たい墓場で―⋯いつか全ての真実を伝えようと。

「もう、私(陸吾)を見据え続ける必要はない」

浮游の指先が、葆江の凍りついた瞼へと優しく触れた。何千年の間、光のない闇の中で、あと数歩が届かなかった『陸吾』の絶望を映し、糾弾し続けてきたその瞳。その上に、そっと温もりのない指を滑らせ、引き下ろす。氷が微かに融ける小さな音と共に、葆江の瞼が静かに閉じた。それは、救えなかった過去の陸吾の執念を、そしてその瞬間に居合わせた自分自身の無念を、有昧の后ではなく『浮游』として、ようやく看取ってやることができた瞬間だった。

完全に目を閉じた葆江は、もはや悲劇の目撃者ではなく、ただ静かに眠る美しい神の彫刻へと変わっていた。

浮游は一度だけ、自らの空っぽの胸を衣服の上から強く掴んだ。哀しみは感じない。だが、奇妙な疼きだけが残っていた。

「感謝する」

彼は両手を冷徹な氷床へとつき、そのまま上体を深く、深く伏せていった。

九部を統べるかつての支配者としての傲慢さをすべて削ぎ落とし、ただの「浮游」という一介の神に戻って捧げる、伏礼(ふくれい)であった。

カツン、と静寂のなかに、彼の額が万年氷に触れる小さな音が響く。

瞼を閉じることができるのも、ここに音が響くようになったのも、燭陰の神力が衰えている―⋯証拠であった。

葆江が必死に守ろうとした肉芝の胞子が―⋯凍土へと零れ落ちたのだろうか。

ひび割れの音と共に、その隙間からその生命力で芽吹いていく。

涙は出ない。哀しむことは許されない。だが、額を地につけ、身を震わせるそのポーズそのものが、かつての上司として、そして救えなかった一人の神への、言葉にできない最大級の弔いであった。

凍土の冷たさを額に刻みつけたまま、数拍の間、彼は微動だにせず伏し続けた。やがて、吸い込まれるような長い呼吸と共に、浮游はゆっくりと上体を起こし、立ち上がる。氷から離れたその額には、赤く氷の痕が残っていたが、彼の顔にはすでに、あの感情のない「有昧后」の冷徹な仮面が、寸分の狂いもなく張り付いていた。背筋を伸ばし、衣服の塵を払って両手を後ろに組んだ彼の背中には、もう一介の神を悼む「浮游」の影はどこにも残っていなかった。

「……行こう」

己の神力で、葆江を包み込むと。

二度と開かぬよう、氷室の扉を修復しようとする。

―⋯が、あの、時を止めていた鳥がバサバサっと羽音を鳴らして―⋯その側をすり抜けると。北溟の大海の上空へと羽ばたいていった。

浮游はただ黙って、その行方を―⋯眺めていた。

「⋯⋯」

彼は―⋯修復しようとするその行為をやめて、その場を去っていく。

永遠の命とは―⋯不老不死とは、何であろうか。

神々ですら正解を知らぬ―⋯答えのない概念は。

北の大地に、封印されたまま。

そして―⋯燭陰はずっと守り続けていくのだろう。

外では、愚強の放つ極北の冷風と、仲間たちの怒号が渦巻いていた。

すべてを秘匿した孤独な后は、九部の平和という名のチェス盤を動かすため、迷いのない足取りで灼熱の戦場へと戻っていった。

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