海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
奥へ進めば進むほどに⋯次第に冷気が強まっていく。呼吸をすると、まるで喉が張りつくような、そんな感覚であった。その空気は意識せずとも吸えるような軽やかさはない。まるで気管が狭くなっているかのように。喘鳴が⋯暗闇に響くのであった。
生者がいるべき場所ではない。
それが、全身でひしひしと伝わってきた。
それは、冥界への入口が迫っていることを示唆していた。
震える指先を、ふう―⋯、と己の息で温めて。
それからふと、前を見ると。
つい先ほどまで、前を歩いていた者の姿がない。
先は―⋯⋯何もない。
提灯や魚の光も消え去り⋯真っ暗だ。
すると突然、ドン!!と強い衝撃音と共に、大鶚が反り返るようにようにして逆さまになって。無論、我々は見事に放り出される。
大した高さからでないことが幸いであった。
おまけに―⋯忘川は平瀬。膝を没する程度に浅くかったこともまた、天佑であった。
無様に尻もちをつくものの、男2人はすん、と何事もなかったかのようにしてそこに立っているし、川を渡る死者達はすぐ側をすり抜けて行くしで、なんとなく⋯アウェイな空気を察して。
ただちに、すくっと立ち上がったのだった。
博益の肩が僅かに震えて、けれど「無事か?」と尋ねてくれた。笑いを堪えてはいるが、流石のフェア精神である。
「大丈夫、大丈夫。大鶚は鳥目だったのか?」
寂々と歩む死者の列線は、その暗闇に引き寄せられるようにして。
疎らに、けれど途切れることもなく、やがて薄い影となって。巨体で川を遮る大鶚をすり抜けては―⋯フッと吸い込まれるようにして、その彼方へと姿を消していく。
そこは、忘川の終着点。
その川の終焉は―⋯滝のように下方へと流れ落ちて。けれど、それは霧状になって⋯行く先を隠していた。
(この下が、冥界か)
ここから漂い溢れ出てくるのは、冷気だけではない。
死者の―⋯念であろうか。声にならない声のように、姿なき情の魂が、生者の世界へと訴えてくるように。【気配】だけがまとわりついてくるのだ。
「ここで冥界の王を待つ」
有昧后はそう言って、手を後ろに組んでじっとその時を待つのかと思いきや。
気を失っている大顎の元へとゆっくりゆっくりと歩み寄る。
と、不意に。
【邪魔だ】と言わんばかりにその首を掴み取ると―⋯。
首元をスッと撫でるかのように⋯いや、まるで斬るかのようにして2本の指を走らせた。
赤い嘴には、石版のような物を咥えさせる。
(⋯一体何を?)
眉の1つも動かさずに、淡々と。まるで作業の如く⋯、だった。
有昧后は冷徹な双眸で大鶚を見下ろし、ぽいっと投げ捨てるかのようにその首から手を離して。その間一切の瞬きもせぬまま、滅紫の片袖を内から外へと大きく翻した。すると―⋯どうだ?
突風が忘川の水面を激しく割って、コポコポと音を立てながら―⋯水の角をつくっていく。
そして―⋯。スッと右手の二指を立てて剣指を結び、虚空に目に見えぬ呪符を描くように一閃させると、あの闇へとその指を突き示した。
途端に、まるで激流の如く⋯川は轟音をたてて、いとも簡単に、大鶚の巨大な身体を浮かせて流していったのだった。
霧の、彼方へ。
有昧后の黒紅梅が風に煽られて―⋯まるで、そう、あの世で最初に死者を裁く秦広王の如く。射すくめるような、氷の眼光で大鶚が消えていったその先を睨み続けていた。
私はその冷たい横顔をただじっと見据えて。あの、ガラス玉のような瞳に魂を吸い込まれるかのように―⋯目を離せずにいた。
彼の背後には、8本ほどの紅の陽炎が煌々と揺らめいて。
それが、何だかアレに見えて。
思わず―⋯つぶやくのであった。
「⋯⋯千手観音⋯?」
(ああ、いつであったか、浮游とそんな話をしたな⋯)
ぼんやりと、有昧の貯蔵庫を思い出すのだった。
(⋯なんだかもう何年もここにいるような感覚だ。早く、帰りたい)
やがて何もかもが考えるのが面倒になったみたいに、頭の中が、真っ白に―⋯なっていったのだった。
生者がいるべき場所ではない。
それが、全身でひしひしと伝わってきた。
それは、冥界への入口が迫っていることを示唆していた。
震える指先を、ふう―⋯、と己の息で温めて。
それからふと、前を見ると。
つい先ほどまで、前を歩いていた者の姿がない。
先は―⋯⋯何もない。
提灯や魚の光も消え去り⋯真っ暗だ。
すると突然、ドン!!と強い衝撃音と共に、大鶚が反り返るようにようにして逆さまになって。無論、我々は見事に放り出される。
大した高さからでないことが幸いであった。
おまけに―⋯忘川は平瀬。膝を没する程度に浅くかったこともまた、天佑であった。
無様に尻もちをつくものの、男2人はすん、と何事もなかったかのようにしてそこに立っているし、川を渡る死者達はすぐ側をすり抜けて行くしで、なんとなく⋯アウェイな空気を察して。
ただちに、すくっと立ち上がったのだった。
博益の肩が僅かに震えて、けれど「無事か?」と尋ねてくれた。笑いを堪えてはいるが、流石のフェア精神である。
「大丈夫、大丈夫。大鶚は鳥目だったのか?」
寂々と歩む死者の列線は、その暗闇に引き寄せられるようにして。
疎らに、けれど途切れることもなく、やがて薄い影となって。巨体で川を遮る大鶚をすり抜けては―⋯フッと吸い込まれるようにして、その彼方へと姿を消していく。
そこは、忘川の終着点。
その川の終焉は―⋯滝のように下方へと流れ落ちて。けれど、それは霧状になって⋯行く先を隠していた。
(この下が、冥界か)
ここから漂い溢れ出てくるのは、冷気だけではない。
死者の―⋯念であろうか。声にならない声のように、姿なき情の魂が、生者の世界へと訴えてくるように。【気配】だけがまとわりついてくるのだ。
「ここで冥界の王を待つ」
有昧后はそう言って、手を後ろに組んでじっとその時を待つのかと思いきや。
気を失っている大顎の元へとゆっくりゆっくりと歩み寄る。
と、不意に。
【邪魔だ】と言わんばかりにその首を掴み取ると―⋯。
首元をスッと撫でるかのように⋯いや、まるで斬るかのようにして2本の指を走らせた。
赤い嘴には、石版のような物を咥えさせる。
(⋯一体何を?)
眉の1つも動かさずに、淡々と。まるで作業の如く⋯、だった。
有昧后は冷徹な双眸で大鶚を見下ろし、ぽいっと投げ捨てるかのようにその首から手を離して。その間一切の瞬きもせぬまま、滅紫の片袖を内から外へと大きく翻した。すると―⋯どうだ?
突風が忘川の水面を激しく割って、コポコポと音を立てながら―⋯水の角をつくっていく。
そして―⋯。スッと右手の二指を立てて剣指を結び、虚空に目に見えぬ呪符を描くように一閃させると、あの闇へとその指を突き示した。
途端に、まるで激流の如く⋯川は轟音をたてて、いとも簡単に、大鶚の巨大な身体を浮かせて流していったのだった。
霧の、彼方へ。
有昧后の黒紅梅が風に煽られて―⋯まるで、そう、あの世で最初に死者を裁く秦広王の如く。射すくめるような、氷の眼光で大鶚が消えていったその先を睨み続けていた。
私はその冷たい横顔をただじっと見据えて。あの、ガラス玉のような瞳に魂を吸い込まれるかのように―⋯目を離せずにいた。
彼の背後には、8本ほどの紅の陽炎が煌々と揺らめいて。
それが、何だかアレに見えて。
思わず―⋯つぶやくのであった。
「⋯⋯千手観音⋯?」
(ああ、いつであったか、浮游とそんな話をしたな⋯)
ぼんやりと、有昧の貯蔵庫を思い出すのだった。
(⋯なんだかもう何年もここにいるような感覚だ。早く、帰りたい)
やがて何もかもが考えるのが面倒になったみたいに、頭の中が、真っ白に―⋯なっていったのだった。