海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
「誰かと思えば、そちであったか有昧伯よ。何故かような愚行を?朕が領分で私刑を試みるなど―⋯言語道断」

ハッと気づけば。

いつの間に現れたのか?

鈍色(にびいろ)の衣を着た若い男が、ぬらりとこちらに歩み寄って来る。

私は、急な展開に―⋯混乱していた。なぜならば私が対峙しようとしていたのは、渾沌(こんとん)であったはずだからだ。まさに、戦乱のような状況下、蒼鳥から落ちて矢が飛び交う中を―⋯平原を走っていたはずだった。

なのに、だ。

(⋯⋯?どこだ、ここは。渾沌は?有昧軍はどうなった?燭陰は?それに⋯いつ有昧后と合流を?)

足元は、冷たい⋯川。生気の抜けた者たちが歩き去っていく様を見る限り、ここは―⋯ひょっとすると、忘川?

ぐるぐると考えを巡らせるが、このドラマばりの場面変換は待ってなどくれない。

鈍色男が歩むたびに、その煤けた裾が川床を這い、水が自らそこだけを避けていく。鉄でも羽織っているのか、とツッコミたくなるような重苦しい足音。頭上の冕冠(べんかん)から垂れる黒い玉簾(たますだれ)が、その奥にある男の『眼』を覆い隠し、ただただ威厳を周囲へ誇示していた。

(金泥の刺繍が施された衣、頭には⋯ジャラジャラと邪魔そうな玉。なんともいえない重厚感。これはまさに、王たる象徴。⋯てか、誰?私刑って、何の話?ここが忘川ならば、可能性としては⋯冥界王、か?)

その不気味な男は、お付きの者と共に有昧后の目の前でピタリと足を止める。

「朕自らを出向かわせるとは―⋯。有昧伯、勝手は許さぬぞ。万死に値する」

「⋯幽都大帝(ゆうとたいてい)、⋯(えい)大宰(たいさい)

有昧后は立ったまま両者へとサッと咆哮礼をするが、一方の博益は、片膝を忘川につけて、丁寧に深く挨拶をする。

(【幽都大帝】。呼び方的には、やはり冥界の王に間違いないようだ。でも待てよ、隣りにいるのが【大宰】だって?そうすると⋯この王、よもやすると?)

「楽にせよ」

その冥界王の偉そうな命で、博益はようやく立ち上がる。

するとどうだ?

黒い玉をジャラっと手で開いて。その男は状況を掴みきれずにただ立ち尽くす私を⋯覗き見ているようだった。痛烈な視線を感じる。

「そこの無礼な女子(おなご)。そちの顔に覚えが。名を名乗れ」

急すぎて未だ状況は掴めないけれど、臆するなかれ。けれど礼を欠いては、心象が悪い。

私は一歩前に進み出ると、すっと背筋を伸ばしたまま静かに膝を折り、重ねた両手を深く下ろした。

そして冕冠(べんかん)の玉簾の奥から注がれる大帝の視線を真っ向から受け止めながら、答えるのであった。

「九州の土を渡りて参りたる、有昧が娘、名を海棠と申します。 幽都大帝陛下、お初にお目通りを願います」

「【海棠】?大宰、この者は?」

隣りのお硬そうな顔した男が、微動だにせずに、じっと私の顔を見据える。「この、翳大宰は渡河名簿に記された名を全て脳内で管理している」と、博益がこっそりと耳打ちして来た。

なるほど、脳内で木札の束をバーっと広げて、名を探している状態か。

しばらくすると、翳大宰は徐に、首を横に振った。そりゃあ、本名でもないし当たり前だ。

「そなたのような気概を持った女傑を朕が放っておく筈もない。が、そうであるからこそ記憶に留めているのか⋯?大宰、どう思う?」

私は、冥界王が事あるごとに【大宰】に答えを求める姿に、疑念が更に深まる。

「大帝陛下。それよりも、第一殿・秦広王、および十王一同より、至急の『上疏(じょうそ)』が届いております」

「またか。なぜこうも忙しい時に皆、朕を困らせるのだ」

冥界王の、その威厳はどこにいったのやら。先ほど鉄のようにすら見えた高貴な衣を⋯羽衣のように軽やかに翻して、慌ててその上疏文なる木札の束を広げて行くのであった。

「えいっ、邪魔だ」と冥界王は【ジャラジャラ冠】の簾を何度も掻き分けて―⋯随分と長いこと、その上疏を読み耽る。そのを、怒りなのか―⋯不安なのかはわからないが、しきりに震わせて。

しまいには、

「有昧伯!!そなたが余計なことをするから、朕が都は大混乱だ。どうしたらいいと言うのだっ。弁明せよ」

などと言って―⋯木札の束を、こちらへと投げつけて来たのだ。

(やはり、そうか。先ほどから顔色ばかりを窺っているこの王は、まさに―⋯風見鶏。すなわち、大帝としての絶対的な威光を衣服と王冠で取り繕いながらも、その中身は空っぽな、他人の糸で踊らされる操り人形。傀儡王(かいらいおう)だ)

「大宰!そちが読んで聞かせよ」

何だって、死後の世界を司る者が―⋯このような者なのか。

私は、つい首を傾げるのであった。

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