海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
「なるほど、秦広王の申すことも一理あるが⋯有昧伯、卿が直々に正式に『出国の印』を据えて送り越したのだ。ならば、朕がここに『入国の印』を押し、ただちに地獄の刑罰に服させれば、それで事足るのではないか。そう、印を、印をただちに押そうではないか」 

大帝は怯えを隠すように、引きつった笑みを浮かべてその手から印璽(いんじ)を出現させる。

どうやら―⋯有昧后の意のままに動き、一刻も早くこの重圧から逃れたいという、傀儡ゆえの浅はかな判断で。 

その時、大帝の影に控えていた大宰が、音もなく一歩前へ出た。その声は低く、平穏でありながら、有無を言わせぬ冷徹な響きを帯びていた。

「陛下。簡単に印を押してはなりませぬ」 

大宰は有昧后の鋭い視線を正面から受け流し、大帝の前に恭しく頭を垂れた。

「此度の件、単なる大罪人の処遇にあらず。相手はかつて天帝陛下に斬首されたる神殺しの凶獣。これを生身のまま地府へ迎え入れるとなれば、冥界の法を揺るがすのみならず、天や崑崙を巻き込む大過へ発展せぬとも限らぬ。 まずは、冥府第一殿たる秦広王をはじめ、十王のすべてを召集し、喧々諤々の協議を尽くさせるべきにございます。その上で、天界へ使者を立て、その御意志をしかと窺い知るのが道理でありましょう。有昧伯の威光がどれほどにございましても、地府の法秩序を独断で曲げるは、禍根を千載に残すこととなります」

 大宰の静かなる諫言(かんげん)に、大帝の手は印璽の手前でぴたりと止まり、忘川には再び、肌を刺すような沈黙が満ちていった。

けれど―⋯その大宰の冷徹な諫言と、有昧后の放つ無言の威圧。そんな破裂寸前の緊張を破ったのは、あまりにも場違いな、微かな高音であった。

「――ピッ」 

有昧后の逞しい背中にぶら下がる私の、その懐から、押しつぶされた白い毛玉のようなものが、弾かれたように転び出てきたのだ。 それは、冥府の陰惨な空気にはおよそ不釣り合いな、極小の怪鳥――否、雪の精の一片のごとき、真っ白で丸々とした、愛らしい小鳥。

忘れていた。こんな所にいたのか、と、思い切り押しつぶしてしまっていたことを大いに反省する。

「⋯ほう?」 一方の大宰は、怪訝そうに眉をひそめる。

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