海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
湖面の側は―⋯重症者を治療・養生させる医療拠点。トリアージで【赤】と判断された者たちが運ばれて来る場所。暑さでスチームが上がっていたこの場所だったが、その濃霧は消え去っていた。

けれど、その場所にはいつの間にか自分のあずかり知らぬうちに、天幕が設営されている。

蒸気霧(スチームフォグ)は、傷口の乾燥を防ぎ、凍えるような冬の呼吸器を優しく保護する。だからこそ【彼】は、屋外であったこの場所にあえて拠点を構え、燭陰の熱が引いた今もなお、幾つもの巨大な青銅器の釜で湯を沸かし続け、それと同条件の温湿度を物理的に保つ工夫を凝らしていたのだろう。もちろん、ただの湯ではない。釜の中には、抗菌と鎮痛の効能を持つヨモギが大量に投入され、傷口を縛るための麻布を煮沸しながら、その蒸気を天幕の内外へと無駄なく循環させている。

その、温湿度を、その条件を肌身に感じて忠実に行えるそんな機転が利く者は―⋯。嗅覚の優れた、福であろう。彼は現在不在のようだが、おそらく自身の感覚で判断し動いているのだろう。流石は、有昧后の臣下であり、私の知恵袋的、相棒である。

さて。この急激な気温の変動は、戦傷で体力を奪われた重症人たちにとって、新たなる致命的な敵となり得る。風邪や感染症を蔓延させる訳にはいかない。

「この者たちの容態が落ち着くまでは、釜の火を落としてはなりません」
ここを畳むのは、時期尚早だ。

「天の気が引き、急激に冬の陰気が押し寄せています。この急な揺り戻しは、戦傷の熱のように恐ろしい悪風を呼び込みます。この『温かなヨモギの霧』を絶やせば、傷を負った者たちの肌や喉が乾き、冷気に身を晒せば⋯、そこから一気に疫病が軍営全体に広がります。どうか、ここで『温もりと潤い』を守り続けることをお願いしたい。それから⋯、どうか貴方がたも十分に御自愛を」

私は、そう伝えて。

次なる場所へと向かったのだった。
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