海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
浮游がやって来たのは、と、ある昧谷の西の果て。
禹后でさえも感知できぬこの地は、鐘山と同じように九州に属することのない外地ともいえた。いわば「天法すら届かない完全な死角」。
地誌にも一行たりとも記載されないその場所には、鬱蒼としたまるで怨念のように生い茂る草地が、延々と続く。
真暗闇の上空には―⋯通り道に触れるだけで全ての植物が枯死するという毒鳥 鴆が支配し、天妖たちですら近づけば即死するような―⋯瘴気と毒とを孕んだ死の霧が、視野を完全に妨げる。
その奥地にある沼にはひっそりと、しかし不気味に自生している植物は、【莽草】や断腸草⋯つまりは「腸にねじ切れるような激痛」が走り、呼吸が止まって死すと言われる【冶葛】といった、普通の神や人間なら近づくだけで即死するような絶望を象徴する植物たちであった。
そう。例え知っていたとしても、誰も近づくことは叶わない。
世界で唯一、そこへ入って生きて帰ってこられるのは、毒気に完全な免疫を身につけている浮游ただ一人だけであった。なぜ、彼に免疫があるのか?それは、相柳という名の九頭蛇が深く刻んだ―⋯、友情の名残りだ。
その「誰も近づけない絶対の禁忌の地」へ無言で突き進み、ひなびた庵の封印をこじ開けた瞬間、独特の濃密な空気が浮游の頬を打った。
薄暗い薬廬の、うっそうとした天井。
そこから、色褪せた麻紐で無数の粗末な布袋や、奇妙な乾燥薬草の束が、まるで雨の雫のように不規則に宙へぶら下がっている。
歩くたびに浮游の肩や、その長い黒紅梅の髪をかすめる、おびただしい数の袋、袋、袋。
ある袋からは、五臓を補う上薬人参の深く甘い大地の香りが漂い、またある袋からは、毒を以て毒を制す下薬莽草の鼻を刺すような鋭い青臭さが漏れ出てくる。世間一般の薬屋ののどかさなどそこにはない。百薬にまみれ、命を救う処方を追い求め続けた仙人の、静かなる執念の痕跡が空間を支配していた。
浮游はその薬袋の森を、長い腕で払いながら奥へと進む。
その天井から吊るされた無数の黒い影の隙間、最奥の古びた泥壁の向こうに⋯ひと際大きく、だがひっそりと刻まれた、色褪せぬ四文字の刻字が、彼の双眸たる灰色の瞳に映り込んだ。
【枯 木 逢 春】
それは⋯、例え死にかけた枯れ木のような命であっても、我が医術の執念のすべてをもって、もう一度春の息吹に逢わせてみせる、という、信念。
浮游はその文字を、無言で、目に焼き付けるほどに⋯じっと見つめた。
この薬廬の主の【執着の灯火】が⋯彼の瞳の奥に映り宿る。
「久しく聞く足音に、客人でも来たかと思えば⋯」
大釜から立ち昇る湯気がユラリとその影を投影させて、その老人は、姿を現した。
「⋯炯炯有光。何用だ、有昧伯」
浮游はまるで陽炎の如く、その残像だけを残して⋯。一瞬にして、湯気の向こう側にいる老仙人の胸ぐらを掴んだのだった。
禹后でさえも感知できぬこの地は、鐘山と同じように九州に属することのない外地ともいえた。いわば「天法すら届かない完全な死角」。
地誌にも一行たりとも記載されないその場所には、鬱蒼としたまるで怨念のように生い茂る草地が、延々と続く。
真暗闇の上空には―⋯通り道に触れるだけで全ての植物が枯死するという毒鳥 鴆が支配し、天妖たちですら近づけば即死するような―⋯瘴気と毒とを孕んだ死の霧が、視野を完全に妨げる。
その奥地にある沼にはひっそりと、しかし不気味に自生している植物は、【莽草】や断腸草⋯つまりは「腸にねじ切れるような激痛」が走り、呼吸が止まって死すと言われる【冶葛】といった、普通の神や人間なら近づくだけで即死するような絶望を象徴する植物たちであった。
そう。例え知っていたとしても、誰も近づくことは叶わない。
世界で唯一、そこへ入って生きて帰ってこられるのは、毒気に完全な免疫を身につけている浮游ただ一人だけであった。なぜ、彼に免疫があるのか?それは、相柳という名の九頭蛇が深く刻んだ―⋯、友情の名残りだ。
その「誰も近づけない絶対の禁忌の地」へ無言で突き進み、ひなびた庵の封印をこじ開けた瞬間、独特の濃密な空気が浮游の頬を打った。
薄暗い薬廬の、うっそうとした天井。
そこから、色褪せた麻紐で無数の粗末な布袋や、奇妙な乾燥薬草の束が、まるで雨の雫のように不規則に宙へぶら下がっている。
歩くたびに浮游の肩や、その長い黒紅梅の髪をかすめる、おびただしい数の袋、袋、袋。
ある袋からは、五臓を補う上薬人参の深く甘い大地の香りが漂い、またある袋からは、毒を以て毒を制す下薬莽草の鼻を刺すような鋭い青臭さが漏れ出てくる。世間一般の薬屋ののどかさなどそこにはない。百薬にまみれ、命を救う処方を追い求め続けた仙人の、静かなる執念の痕跡が空間を支配していた。
浮游はその薬袋の森を、長い腕で払いながら奥へと進む。
その天井から吊るされた無数の黒い影の隙間、最奥の古びた泥壁の向こうに⋯ひと際大きく、だがひっそりと刻まれた、色褪せぬ四文字の刻字が、彼の双眸たる灰色の瞳に映り込んだ。
【枯 木 逢 春】
それは⋯、例え死にかけた枯れ木のような命であっても、我が医術の執念のすべてをもって、もう一度春の息吹に逢わせてみせる、という、信念。
浮游はその文字を、無言で、目に焼き付けるほどに⋯じっと見つめた。
この薬廬の主の【執着の灯火】が⋯彼の瞳の奥に映り宿る。
「久しく聞く足音に、客人でも来たかと思えば⋯」
大釜から立ち昇る湯気がユラリとその影を投影させて、その老人は、姿を現した。
「⋯炯炯有光。何用だ、有昧伯」
浮游はまるで陽炎の如く、その残像だけを残して⋯。一瞬にして、湯気の向こう側にいる老仙人の胸ぐらを掴んだのだった。