海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
私が、私の人生の最期に見たのは⋯気品のある優美なその、佇まい。
薄紅色の花を咲かせた⋯たった1本の木であった。





大学2年生の春。
初めて寝坊した、4月の朝。
普段は欠かさない朝食も、この日ばかりは諦めて。顔を洗って、歯を磨いて、それから⋯ヘッドゴムをつけて、スマホ片手に幼馴染み兼親友と喋りながら玄関へと向かった。

「走ればギリ間に合うかも。ごめんだけれど、席だけお願いできる?⋯うん、⋯うん?わかった。学食でいい?⋯オッケー、ありがとう。じゃあ、また後で」

履修している必修科目の講義が1コマ目から入っていたけれど、間に合うかどうかの瀬戸際。代返も逃げピ(※ICカードで出席確認後に授業を受けない行為)はもってのほか。生協アプリで残高を確認して、おごる約束を果たせそうなことに⋯ホッとする。

片足に履きかけた新しいスニーカーを一旦脱いで、側に並ぶもう一方のシューズへと履き替える。
小中高、とサッカーで鍛えた「ししゃも足」にはこのトレシューがよく似合う。

しっかりと靴紐を結び、踵とつま先とをトントン、と鳴らすと、一人暮らしをしているアパートを、急いで後にした。

緩急つけて走るのは、私が得意としているところだった。
日常生活で運動すると、滲む汗と張り付く前髪が煩わしくて⋯今日は試合用のヘッドゴムをつけてきたこともまた、正解であった。

少し急いで走っては⋯大通りの信号が赤になる度にストップをかけて、ちょっと暇を持て余す。

久しぶりの、晴天だった。ここ数日、雨が続いていたせいで路面がしっとりとぬれて、時折現れる水溜りで、跳ねた水が足元を濡らしていた。

スポーティーなトラックジャケット×ショートパンツのコーデもまた、今日という日にはぴったりだ。

すると⋯、だった。
信号が赤から青へと変わったその瞬間ー⋯足を一歩踏み出したところであった。右側後方からふと目に入ってくる影があった。
ドンっ!とぶつかって来るのが早いかどうか、ほぼ同時に重心を下げ、手を下方に広げてその者の動きを制する。

間接視野で人の気配や動作が案外正確に把握できるのは、これまたスポーツで培った能力だろう。長年ボランチ(サッカーの中盤で攻守を担うポジション)を務めた経験が、ここで生かされた。

途端にビュウっと風が一気に駆け抜けて、心臓が飛び跳ねるほどにドキっとした。間髪おかずに、スピードを出した車が、すぐ目の前を勢いよく右折してきたからだった。


アクセルを蒸す音を立てて、あっという間に車は去っていく。

間一髪。あと半歩分でも体が前に出ていたら⋯今頃、宙を舞っていただろう。

安堵して、一気に肩の力が抜けていった。ふうー、と大きく息を吐いて「大丈夫?」と、呟く。

その「影」。小さな男の子が、ぽかんとした表情で私の顔を見上げていた。
「だって、お姉さんが渡ろうとしてたから」

「⋯⋯⋯」
確かにそうだ。私が⋯悪い。

「ごめんね。びっくりさせたよね」

すると、後ろからもっと小さな子供と手を繋いで駆けてきた父親らしき人が⋯申し訳なさそうに頭を下げて謝ってきた。

きっと、本当にびっくりしたのであろう。男の子は目に涙をためて、今にも泣き出しそうな顔だ。

私は少年の目の高さに合わせて屈むと、「大丈夫、大丈夫」と頭を撫でて、それから親御さんへも謝罪する。

胸をトカトカ、とさせながら⋯青になった横断歩道を今度は慎重に、ゆっくりと歩いていった。



何という1日の始まりだろう、と、急に急ぐ気持ちは皆無になって、無事であれば何でも良いとすら感じて。

「遅刻しても⋯入室不可になっても、仕方ない」
二度寝した自分が悪いのだから、まずは行ってみて聞いてみよう。そして、同じことを繰り返さぬよう自戒する他ない。

そんな悟りを開いて⋯ふと、住宅地へと進路を変えて路地を歩み進めていった。

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