海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
老仙人が去り、天幕の布がパサリと閉じた瞬間、完全なる秘匿の空間が訪れた。
蓬湯の蒸気が―⋯白く、深く、2人を包み隠す。
浮游は、その端正な横顔にいっさいの迷いを見せることなく、意識のない彼女の体をそっと抱き寄せ、冷たい指先で⋯その乱れた髪を整える。
その目線を不意に青銅の器へと移すと、その器を持ち上げ苦く熱い薬液を、自らの口内へと煽り込んだ。
彼女の口元に挟まった数本の髪を、耳にかけて⋯その手を頬へと滑らせると、顎をグイッと上向かせる。
天幕の外は―⋯契が心配したその通りに、雪が一斉に舞い踊る。
その吹雪が―⋯荒れ狂う音が押し寄せてくる中、浮游は彼女の青白い唇を親指で割ると、自らの唇を一分の隙間もないほどに⋯深く、深く重ね合わせた。
彼の口内から、相柳の抗体によって中和された薬液が、口移しで彼女の喉の奥へと滑り込んでいく。
その瞬間、浮游の五臓六腑を、 凄まじい激痛が突き抜けた。
彼女の喉が薬をゴクリと飲み干すと同時に、彼女の体内で暴れていた高熱の苦しみ、そして彼女の魂の奥底に眠っていたすべての『悲しみ (哀)』が、唇の境界を越えて、濁流のように彼の肉体へと流れ込んできたのだ。
哀の感情を奪われ、悲しむことすら許されぬはずの浮游の身体が、彼女の悲しみをすべて代わりに引き受け、 肩代わりしていく。
彼は表情ひとつ変えぬまま、その胸を締め付けるような「彼女の哀しみ」の痛みを、ひとつも逃がさぬように、自らの肉体の奥底へと深く深く沈め、抱きとめていた。
2人が言葉を交わすことも、視線を合わせることも、ない。けれど浮游は―⋯目を見開いたまま、その射貫くような視線を彼女から逸らそうとはしなかった。
何度も何度も合わせた唇は、青白い彼女の唇に熱を運んで―⋯次第に血を通わせていく。
「有昧后のことだから、今頃無理矢理飲ませているのでは?」
心配で天幕にそっと手をかけた福が目にしたのは―⋯ぼんやりと見える2人のシルエットだった。
天幕の中は視界を白く遮る、ヨモギの濃い蒸気霧。その蒸気に濡れて、重く垂れ下がる長い黒紅梅の髪がまるでカーテンのように広がり、彼の広い背中で―⋯死角をつくっていた。
咳き込み咽ぶような声は聞こえず、静かなる⋯空間。
「まさか、窒息して息もでき⋯」と、福が飛び込もうとした瞬間に。博益がパッと福の後ろ襟を掴み取って、それを制止するのだった。
霧の白さと、黒紅梅の髪の影に隠された、わずか数センチの「死角の隙間」。
そこだけが、世界から完全に隔離された二人だけの秘匿の絶対聖域であった。
痛みが襲う浮游の身体に、どれほどの情がこみ上げたのかは図り知れない。けれど―⋯器が空になって暫く⋯、互いの呼吸もままならないほどに密着していた唇の隙間から、
「不味い」
と、そうひと言。彼女が息を漏らすようにして絞り出した言葉に、浮游はそこでようやくハッとして、すぐにその肩を突き離すのだった。
彼の手の隙間からは、梳いていた彼女の髪がハラリと零れ落ちる。
外で待つ男たちは、寒さに震えながら―⋯朗報を待っていた。誰も、何も言わぬ中で⋯老仙人が、ついに口を開いて、福に向かって尋ねる。
「なぜあの白湯を飲ませようと?」
「⋯酷暑の中で、あの白湯こそが体内に気つけをもたらし、熱射に倒れる者がいなかったのです。内なる熱ならば、その渇きは更に深刻になるのでは⋯と」
すると老仙人は、表情を緩ませて―⋯
「主の命の境界線を、その才覚で救ったのであるな。我が秘薬をそのまま口にしていたら⋯救える命も救えぬであっただろう」
とそう言って、福の頭をシワシワの手で⋯往復させたのだった。
蓬湯の蒸気が―⋯白く、深く、2人を包み隠す。
浮游は、その端正な横顔にいっさいの迷いを見せることなく、意識のない彼女の体をそっと抱き寄せ、冷たい指先で⋯その乱れた髪を整える。
その目線を不意に青銅の器へと移すと、その器を持ち上げ苦く熱い薬液を、自らの口内へと煽り込んだ。
彼女の口元に挟まった数本の髪を、耳にかけて⋯その手を頬へと滑らせると、顎をグイッと上向かせる。
天幕の外は―⋯契が心配したその通りに、雪が一斉に舞い踊る。
その吹雪が―⋯荒れ狂う音が押し寄せてくる中、浮游は彼女の青白い唇を親指で割ると、自らの唇を一分の隙間もないほどに⋯深く、深く重ね合わせた。
彼の口内から、相柳の抗体によって中和された薬液が、口移しで彼女の喉の奥へと滑り込んでいく。
その瞬間、浮游の五臓六腑を、 凄まじい激痛が突き抜けた。
彼女の喉が薬をゴクリと飲み干すと同時に、彼女の体内で暴れていた高熱の苦しみ、そして彼女の魂の奥底に眠っていたすべての『悲しみ (哀)』が、唇の境界を越えて、濁流のように彼の肉体へと流れ込んできたのだ。
哀の感情を奪われ、悲しむことすら許されぬはずの浮游の身体が、彼女の悲しみをすべて代わりに引き受け、 肩代わりしていく。
彼は表情ひとつ変えぬまま、その胸を締め付けるような「彼女の哀しみ」の痛みを、ひとつも逃がさぬように、自らの肉体の奥底へと深く深く沈め、抱きとめていた。
2人が言葉を交わすことも、視線を合わせることも、ない。けれど浮游は―⋯目を見開いたまま、その射貫くような視線を彼女から逸らそうとはしなかった。
何度も何度も合わせた唇は、青白い彼女の唇に熱を運んで―⋯次第に血を通わせていく。
「有昧后のことだから、今頃無理矢理飲ませているのでは?」
心配で天幕にそっと手をかけた福が目にしたのは―⋯ぼんやりと見える2人のシルエットだった。
天幕の中は視界を白く遮る、ヨモギの濃い蒸気霧。その蒸気に濡れて、重く垂れ下がる長い黒紅梅の髪がまるでカーテンのように広がり、彼の広い背中で―⋯死角をつくっていた。
咳き込み咽ぶような声は聞こえず、静かなる⋯空間。
「まさか、窒息して息もでき⋯」と、福が飛び込もうとした瞬間に。博益がパッと福の後ろ襟を掴み取って、それを制止するのだった。
霧の白さと、黒紅梅の髪の影に隠された、わずか数センチの「死角の隙間」。
そこだけが、世界から完全に隔離された二人だけの秘匿の絶対聖域であった。
痛みが襲う浮游の身体に、どれほどの情がこみ上げたのかは図り知れない。けれど―⋯器が空になって暫く⋯、互いの呼吸もままならないほどに密着していた唇の隙間から、
「不味い」
と、そうひと言。彼女が息を漏らすようにして絞り出した言葉に、浮游はそこでようやくハッとして、すぐにその肩を突き離すのだった。
彼の手の隙間からは、梳いていた彼女の髪がハラリと零れ落ちる。
外で待つ男たちは、寒さに震えながら―⋯朗報を待っていた。誰も、何も言わぬ中で⋯老仙人が、ついに口を開いて、福に向かって尋ねる。
「なぜあの白湯を飲ませようと?」
「⋯酷暑の中で、あの白湯こそが体内に気つけをもたらし、熱射に倒れる者がいなかったのです。内なる熱ならば、その渇きは更に深刻になるのでは⋯と」
すると老仙人は、表情を緩ませて―⋯
「主の命の境界線を、その才覚で救ったのであるな。我が秘薬をそのまま口にしていたら⋯救える命も救えぬであっただろう」
とそう言って、福の頭をシワシワの手で⋯往復させたのだった。