海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
橿の木の上からは、色々なものが見えた。

白玉の洞窟へと出入りする女仙たちを見ると―⋯かつて自分もそこへ籠って、ひたすら座禅を組んだ記憶が蘇った。

「皆⋯真面目にやってるな」

渓谷に湧き出ている解穢水(かいわいすい)の霊泉。その清らかさは、健在だった。

修行中⋯渇いた喉を潤そうと、女几山を流れる洛水を手で掬って飲もうとした瞬間に、あの者が慌てて大きな声を上げて咎めたことがあった。

この解穢水と合流した伏流であった、と後に知った。

全てはもう、昔の話だが⋯。

彼女は数日間、この山へ滞在し、これまで【見えていなかった】美しい景色と⋯瑶姫が言う五色の鳥を探そうと、ゆっくりと時を過ごすのだった。

とりわけ、あの橿の木の上はお気に入りの場所となった。

(この大木で槍を作れば、そう簡単には折れぬであろうな)

と、戦神ゆえの勘と不思議な心地の良さがあったのかもしれない。

一日のうちの数時間は、そこから女几山の美しい山々を眺めるのであった。

そして⋯

その時は訪れた。

そよぐ優しい風が、ザア―⋯と橿の木々を揺らして。

ふと、彼女が地上を見下ろすと。枝の隙間から、1人の男がまるで数日前の彼女と同じような瞳をして―⋯花海棠をじっと見つめていた。

灰色の瞳、その虹彩に広がる―⋯淡い紅。その者こそが、夔を追ってやって来た、陸吾であった。

陸吾もまた、この海棠の花を見たことがなかった。崑崙花や蟠桃ともまた違う。自分が管理する崑崙の地には、きらびやかで神聖な花木こそ多くあるものの、このような優美(ゆうび)で儚いものは⋯存在しない。

時折、風が花びらを運んでいく様子に、まるで惹きつけられていくかのように見ているのだった。

彼は、崑崙に移植し繁殖させようかと目論み、そっと枝を折ると。それを己の懐に―⋯隠した。

そして、陸吾が辺りをぐるりと見渡しているその時に、顔を面紗で隠した者が⋯目の前に降り立ったのだった。

それは、玄女の気まぐれに過ぎない。天命や西王母の指示がなく、地上の者と交流を図ることは滅多にない。

目と目が合ったその時に。この者が陸吾であると⋯瞬時にそう悟った。色鮮やかな景色の中で、彼の瞳だけが、感情を一切寄せ付けない不変の「灰色」を湛えている。

玄女の脳裏に、かつて西王母から聞かされていた言葉が鮮烈に弾けた。「どれほど美しき楽園であろうとも、それを護る神の目だけは、天の掟を決して曲げぬ「冷徹な深淵」であらねばならない」、と。

それは、玄女自身にも向けられた言葉でもあった。

【正義を守る目は、天を裏切ってはならぬ】

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