海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
8章 天涯の歩測、三つの影
29話 春の胎動を刻む一歩
荒て狂うような波と風とが一斉に鎮まりかえり、この東の果ての海上に⋯凪が訪れていた。
ぽつんと漂う一艘の木船。その船首に立ち、海棠はただぼんやりと、視線のずっとずっと先⋯水平線の彼方を見つめていた。
彼女が恋しく思う、西の果て。その昧谷の崖の上で⋯雄大なる夕日が一面を染めて、彼女はオレンジの空に目一杯大きく円を、故郷の日の丸を描いたことがあった。
陽の帰りを見守ったあの日。
この天妖を一人で生き抜こうと、誓った。
そして今は⋯その地から最も遠い海の果てで、待っているのだ。
巡り巡って還って来るのを。
「湯谷はまだこの先だ」
舵をとる鮫人(※海の民)は、櫂を握りしめながら⋯静かにそう告げた。
「世界の最東端にある聖地―⋯巨大な神木【扶桑】が目印だと聞くが、まだ影も見えぬな。海棠、今のうちに少し休むといい」
彼女の頭をポンポン、と撫でるようにして。隣りに立つ博益が、その顔を覗き込んだ。
「世界の⋯【最東端】?その先⋯海の向こう側には、『何もない』と?」
彼女がふと零した言葉に、彼はハッとして。一切のブレもなく前を見続けるその視線の先を―⋯共に見つめたのだった。
「何もない訳ではない。強い潮流が北東へ流れる先に、巨大な島々がある。ただし、あそこの海域は波が荒く、陸の者が舟で渡るのは不可能だ。我々とて近づくことはできぬが⋯、東の海の果てには、獣の皮を着て、精巧な土の器を作る者たちが住むと噂に聞く」
鮫人の男の言葉に、海棠はそこでようやく、ふ、と笑みをこぼす。
故郷の面影に、その存在の片鱗に⋯触れた瞬間だった。
「そうか。そなたの国【日本】がそこにあるのだな」
彼女と肩を並べて、博益もまた⋯微笑む。
「ちゃんと存在してたんだ。⋯良かった。けれど、やはり私の知る故郷とは―⋯別みたい。土偶⋯土器、おそらく【縄文時代】、か。まだ文明の始まりだとは⋯」
「⋯⋯?」
郷愁の念に駆られた訳ではない。
ただ、自分のルーツが。自分という存在がとうとう認められた気がして―⋯心底ホッとしたのだ。
船は穏やかな波に合わせて、柔らかく上下して。船体が持ち上がると、ギィ…ググ…と、木と木が擦れるようなどこか温かみのある低い音を足元から響かせていた。船首が波に当たる度に、トプンと優しい音を奏でて。
遠くから響く潮騒と、海底から鮫人が放つ高周波の旋律とが調和して、まるでそれは海の四重奏。
その音色に耳を澄ませて、彼女は船に座り―⋯目を閉じるのだった。肩を貸す博益もまた、静かに目を閉じると。
その瞬間―⋯
前方から、眩い光が溢れ出す。
2人は、思わず―⋯目を見開いた。
水平線から昇った太陽の光が、海面にまっすぐな黄金の光の筋を描いていていく。船首に当たって弾ける小さな波の粒が、朝日に透き通ってきらきらと宝石のように輝いて―⋯
一本の光の道。
そのサンロードを、一艘の船が導かれるようにして⋯突き進んでいく。
逆光の中で、舟の輪郭は黒く縁取られ、水面にその影をくっきりと浮かび上がらせているのであった。
その圧倒的な光景を目の当たりにした海棠は、有昧の荘厳たる夕日と、今目の前にある輝く朝日は、別々のものではなく「地続きのひとつの旅」であったのだと腑に落ちるのだった。
世界の広大さと、それを旅してきた自分の足跡への愛おしさが込み上げてきて。
自然と、目の奥から熱いものがこみ上げてくる。
人は―⋯時に情で涙を流す生き物であったと、この時ふと、思い出すのだった。
そして、前を向くのだ。
この旅の終着点―⋯、最東端の湯谷へと向かって。