海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
唯一の出入り口である戸は⋯建付けの悪い引き戸であった。

ギギ⋯、と鈍い音を立てて、戸を開いていく。
その隙間から、顔だけを覗かせて⋯周囲を見渡す。⋯と、すぐそこに、納屋の壁にもたれかかって寝る、福の姿があった。

眉は垂れ下がり、警戒心の欠片もなく⋯寝息をたてて。暫く様子をうかがっていても、時に口元をもにょもにょとさせるだけで⋯それはそれはただの幼子の横顔。

(王の配下が、こうも役に立たないなんて。でも⋯工房作業も献身的で疲れてるのだろう…可愛いから、許す)

以前、私が逃走した時に⋯王は彼を咎めもしなかった。それは⋯一定の信頼もあるのだろう。

私は足音をたてぬよう、そうっとそう、と滑らすようにして戸口を抜けて⋯。

福が目を覚さないか、何度も何度も後ろを振り返りながら⋯月明かりを頼りに、昧谷の地を森へと向かって走って行ったのだった。

しばらくすると⋯鳥であろうか?時折バサバサ、と、闇夜を黒い影が飛んでいく。

奇妙な鳴き声が聴こえたり⋯地を踏む感覚が、感触が急に変わったりもする。

闇雲に歩いても、どこかに辿りつくなんてことも⋯ないだろう。そう思いながらも、好奇心と恐怖心とで葛藤が生まれ⋯なす術もなく、とにかく歩く。



両腕は、繋がれたまま。
「不便だよなあ⋯」と、思わずそう呟くと⋯。言った側から、突然ふと、その呪縛が解かれた。

「もしかして、見られている?」

けれどもしそうならば、誤魔化そうにも最早手遅れである。
気にせずに、突き進むことにしたのだった。


そうやって歩み進めて⋯どれくらい経ったであろうか。
気づけば、どこか遠方から⋯、誰かを呼ぶような哀しくも儚い歌声が、耳に届いてきた。
高く⋯澄んだ美しい声。
まるでそれに誘われるかのように、私はその声を辿っていく。

やがて、その声と重なるかのようにして⋯清らかな音色が加わっていく。

獣道を掻き分けるかのようにして⋯辿り着いたそこは、小さな、湖。コポ、コポと水面に湧き上がる水が⋯映った月をゆらゆらと揺らして。その水面が七色に輝き、息をのむほどに美しい湖であった。

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