海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
私は―⋯いそいそと下準備を始める。
唯一の脱走口である高窓は―⋯2メートル弱ほどの高さ。試しにジャンプするものの、届かずじまいであった。

未だろくな道具が揃っているわけでもない。けれど、あるものでなんとかやって来た自負はある。
使えそうなものは―⋯、と辺りを見渡すと、(むしろ)が目に入った。

筵をギチギチいうほど固く巻いて、麻紐でしっかりと結ぶ。それを3つほど用意すると―⋯、早速、高窓の真下に重ね置いた。

「どれ。―⋯行きますか」

かつて【ししゃも】と揶揄された自分のふくらはぎに、ぐっと力を込めた。

助走をつけて―⋯走る。
丸めた『むしろ』の台を強く踏みしめ、一気に宙へ。次の瞬間、右足の裏がザラついた土壁を捉えた。「――行けっ!」地面を蹴るのではなく、壁を『蹴り上げる』パルクールのウォールラン。サッカーの競り合いで空中へ高く舞う時の、あの浮遊感。壁を蹴った反動で身体がさらに一段、高く跳ね上がる。
伸ばした指先が、窓の縁をガチリと掴んだ。壁を蹴った衝撃で土の粉が舞い、視界がかすむ。けれど、両腕には確かに自分の体重を引き上げるだけの手応えが残っていた。
「……伊達に鍛えてないっての」

私は一度だけ懸垂の要領で身体を引き上げると、そのまま身を滑らすようにして―⋯四角い穴の向こう側へと吸い込まれていった。

降り立ったすぐそこに、家の壁にもたれかかって寝る、福の姿があった。

眉は垂れ下がり、警戒心の欠片もなく⋯寝息をたてて。暫く様子をうかがっていても、時に口元をもにょもにょとさせるだけで⋯それはそれはただの幼子の横顔。

(后の配下が、こうも役に立たないなんて。でも⋯軍営への往復に、工房作業も献身的で疲れてるのだろう。…可愛いから、許す)

以前、私が逃走した時に⋯有昧后は彼を咎めもしなかった。それは⋯全幅の信頼を寄せてるからだろう。

私は足音をたてぬよう、そうっとそう、と福が目を覚さないか、何度も何度も後ろを振り返りながら⋯月明かりを頼りに、昧谷の地を森へと向かって走って行ったのだった。

しばらくすると⋯鳥であろうか?時折バサバサ、と、闇夜を黒い影が飛んでいく。

奇妙な鳴き声が聴こえたり⋯地を踏む感覚が、感触が急に変わったりもする。

闇雲に歩いても、どこかに辿りつくなんてことも⋯ないだろう。そう思いながらも、好奇心と恐怖心とで葛藤が生まれ⋯なす術もなく、とにかく歩く。



「もしかして、見られている?」

あまりにも自由に動けて、逆に不安になる。
けれどもしそうならば、誤魔化そうにも最早手遅れである。
気にせずに、突き進むことにしたのだった。


そうやって歩み進めて⋯どれくらい経ったであろうか。
気づけば、どこか遠方から⋯、誰かを呼ぶような哀しくも儚い歌声が、耳に届いてきた。
高く⋯澄んだ美しい声。
まるでそれに誘われるかのように、私はその声を辿っていく。

やがて、その声と重なるかのようにして⋯清らかな音色が加わっていく。

獣道を掻き分けるかのようにして⋯辿り着いたそこは、小さな、湖。コポ、コポと水面に湧き上がる水が⋯映った月をゆらゆらと揺らして。その水面が七色に輝き、息をのむほどに美しい湖であった。



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