海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜

其れは王にあらず

海棠を背負って歩き、しばらくすると⋯

「イタっ」と、彼女が小さく声を上げた。
どうやら身体が揺れる度に⋯戯言のようにして何かを言うのだ。
浮游はふっと息を吐いて。海棠のその声に⋯耳を傾ける。

「痛いって、ファウルだファウル」

「⋯⋯?」
何を言っているのかもわからずに、ただ、聞いていたのだれど⋯余りにもうるさくて、次第に苛立ちを募らせると。

彼女を仰向けにして、ドサリと地面に下ろしてやった。

すると⋯、胸もとの衣をぎゅっと握って、また「痛い」と呟く。

その動作に浮游はハッとして、すぐに近くにしゃがみ込むと、彼女の手を⋯そこから剥がしとった。

そこにあったのは⋯ほんの少し、点ほどの、小さな小さな赤いシミ。

襟元に手を掛けて⋯一瞬、躊躇するものの、海棠が目を覚さぬよう慎重に上体を抱きかかえて―⋯、優しく襟を捲る。
「⋯⋯⋯」

中衣にもまた、親指大ほどの⋯赤。
ゆっくりとまた身体をおろして、浮游はその胸元に⋯手を翳す。
温かな光が、その掌から流れて⋯、みるみるうちに、その赤いものが消失していった。

浮游は空を仰いで、それから⋯森の中を鋭い眼光で見渡していく。時間をかけて、注意深く。

猛獣や悪神、邪心を持つものから身を守る術を手にしているというのに、何故か?

彼は、海棠の前髪を掻き分けて⋯額に手を置くと。
目を瞑り⋯彼女の記憶を辿っていく。


「⋯⋯」
どうやら海棠は、命の危険⋯塞ぎ込んでいたその恐怖を⋯また味わったようだ。

「傷口の法術が破られたのか」
それは⋯彼女が抑えていた感情の暴発と、外部からの強力な霊力との両面が作用した⋯最も避けるべき事態であることを、浮游は理解する。

「自由にしてやっても、そうではなくとも―⋯」
なぜ、こうも手が掛かるのか。

鸞に帝江、それに⋯博益。

彼女が出会ったのはいずれも⋯出会いたいと望んでも、叶わない者たちばかりである。

「ここは⋯いつから崑崙《こんろん》のようになったのだ?」
浮游は、霧がかっていく空の彼方を見つめて⋯ポツリと呟く。

「⋯⋯面白い」

ため息をついて⋯それから海棠の手を握ると、そのまま2人、風の渦に包まれて⋯跡形なくそこから消えていったのだった。

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