海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
戻って来た納屋の中で、うなされながら寝る海棠の脇には⋯未だ浮游の姿があった。

彼女に知られてはいないが―⋯、彼はここに毎日訪れている。ほんのたったの数分であるが、福より報告を受け、怪我の経過を⋯見ていたのだ。
自分の血を分けた者である。
いつ、何時⋯何かが起こってもおかしくはない。理由はそれだけだったが。

そう、出会ってからずっと、変わらずに―⋯。

起きていれば不遜な態度で自分に接してくる。それをわかっているから、煩わしさを避けて、夜中の数分だけ⋯姿を現している。

そんな日々であったが、今夜は―⋯いつもとは様子が違う。

額に汗をかき、上掛けをぎゅっと握る彼女を⋯無機質な瞳で見ていた浮游だったが、時間が経てば経つほどに⋯海棠の感情なのか、自分のものなのかもわからない悲愴な負の感情が⋯流れてくるのを感じていた。

人間界で味わったことを忘れても、ただ心の奥底に隠れているだけ。本人の無意識下で、それが呼び覚されることがあるのも勿論のことだ。そう、些細なことで。
とてつもない⋯恐怖を。

そして⋯今宵の出来事が新たな痛みの記憶として⋯残ってしまうことは、彼女は知る由もない。
⋯もはや苦しむ他ない。

霊力の強い彼ならば、その力を分けることも、多少の傷も癒すこともできた。
けれど⋯1度起きてしまったことは、記憶を消すことは、できない。

これから、このような目に遭う度に⋯傷口を開き、自分の手を煩わせるのかと思うと。特に害もないこの者をさっさと手放してしまう方が楽だろうと⋯苦虫を噛みつぶしたような表情で、彼女を見ながらそう思うのではあるが⋯。


浮游は立ち上がり、小窓下の棚に置いてある香炉に⋯火をつけた。

漂う1本の煙が立ち昇るのを静かに眺めて⋯また、海棠の側へ戻る。

「⋯⋯⋯」
ふと思う。
忘川(ぼうせん)に身を投げる者は、このような思いから解放されるために⋯全てを捨てる覚悟で訪れるのか、と。

考えたこともなかったけれど⋯何故か今、初めて思い至ったのだった。

「⋯⋯。お前を投げてやろうか?」
うなされる海棠にそう言って、額を指で思いきり弾く。

するとどうだ?

「痛い!」と叫んで、突如海棠は上掛けを蹴って⋯起き上がった。

「「⋯⋯⋯」」
起きたものの⋯どうやら事態の把握に時間がかかっているらしく。

彼女は自分の姿を見て、それから⋯キョロキョロと辺りを見渡して、それからやっと⋯浮游の方を見た。

「⋯⋯。⋯監視してたの?安心して、言ったでしょう。逃げなどしないから」

「⋯⋯⋯」


「まだ疑ってるんだよね?ほら、見て。こんなにぐるぐると腕を巻かれたら何にもできやしない」

《《見えない》》腕輪を翳して⋯さも従順なふりをして。

「⋯小賢しい」

「こっ⋯!⋯まあ、その通り」

「痛みは?」

「⋯⋯?何の話?それより⋯、もう夜が明ける。妖怪は寝ないの?」

いつの間にか対等に口を利いていることにも気づかずに⋯彼女は話を続ける。

「寝る者は寝るし、寝ない者は寝ない」

「福は前者ね⋯」

「何か不都合でもあるのか」

「いえ。人間は寝ないと体力も気力ももたないから⋯、もう寝るとします。気になるならどうぞ、戸の外で」


「なぜ私がお前のことなど気にする?わざわざ面倒な真似を?お前の世話は、福に任せていたはずだ」

「⋯⋯それも⋯そうだけど」

「これは、夢の中だ」


浮游はそう言って、チラリと香炉の方へと目をやると。その姿が見えなくなるよう、炉を消し去った。

香の煙は、まるで忘川で見る霧のように⋯深く、深くたなびく。

一方の海棠は、ゆっくりと部屋の中を眺めて⋯
「この霧は⋯⋯」と、浮游の言葉の意と比べるようにして、考え込む。

「なるほど、夢ね。夢ならば⋯無礼講で」
彼女は寝床の上をポンポン、と叩いて。ここに座れと言わんばかりに⋯手招きをする。

浮游は黙ってそれに従い、海棠の隣りへと腰をかけた。

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