海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
心臓が、ズキズキと痛み出す。
私は、中衣をぎゅっと掴んで⋯その痛みを堪えた。







ハッと気がつくと⋯浮游の大きな瞳が⋯真っ直ぐに私を見ていた。

凍てついた静謐を(まと)い、何一つ語らぬまま⋯私の肩を峻烈に揺さぶって。肩に食い込む指の熱さが⋯現実へと引き戻していた。

「有昧王⋯?」

「冗談だ。真に受けるな」

「⋯⋯⋯」

冗談が通じぬ相手が、逆に冗談を言うだなんて⋯そんなことはあるのか?
そうだとしても、決して笑えない。

弓矢は既に⋯跡形なく消え去っていた。

私は、自分の首元に記された血の痕跡を⋯指でなぞっていく。頸動脈の鼓動を感じながら。


(二度と⋯信じてなるものか)

人差し指の先に付いた、浮游の血。
それを⋯親指で拭って、睨みつける。怒りと、憎しみを込めて。


なのに⋯、だ。憎き相手は、いとも簡単に私を凌駕する。冷厳峻烈を極めた一瞥。だがその深淵には、制御不能な怒りと混濁した思考が渦巻いているようにも見えて。まさに⋯凪の前の嵐。

しん⋯と辺りが静まって。
波の音も、風の音も耳に届かぬほどの⋯凪であった。まるで自分たち以外の全てが止まっているかのような⋯光景。

王は左側の胸元、その羽織をぎゅっと握りしめて。途端に、私の身体を身体を突き離した。

「有昧王?」
どこか⋯違和感があった。

「⋯大丈夫?」
睨み合いをして勝ったことなど一度もない。
先に視線を逸らすなど―⋯この男のプライドが許さぬはずなのに。

なのになぜ⋯?
人の痛みを顧みないから、自分に返ってきたんじゃないか?などと邪な思いを抱えながら⋯妙な事態に、小首を傾げる。


待てよ。この人に何かあったら、それこそ福も、有昧もどうなってしまうかわからない。一緒に居る私が⋯真っ先に疑われる?

「有昧王。ちゃんと話します。何があったのか話しますから⋯こっちを向いてください」

透徹した理知は、背後にある気配すらも冷徹に選別し、無価値な言葉を撥ね退ける。

背中すらも、語るのだ。
自分の領域に、踏み込んで来るな、と。

本当に、一大事なのかも⋯しれない。

胸の痛みが、ザワザワと⋯音を立て、その様を変えていく。

私は有昧王の正面へとまわって声を掛け続ける。

「有昧王、聞いてますか」
聞こえてはいるのだろう。
けれど、ふいっと後ろを向いて。⋯歩き出す。

「有昧王!⋯⋯ねえ、どこに?本当に私を置いて行く気?ただの冗談だったのでは?」

その背後は、近づく者の言葉をことごとく凍らせる。
一分の隙もない足取りは、追いることさえ不敬であると感じさせるほどの、絶対的な孤高を際立たせていた。

追いかけようとした足を⋯ピタリと止める。
「⋯⋯⋯」
どうしよう。本気で怒らせたのかな。
それとも、どこか痛い?
拒絶するほどの何かが⋯あったというの?


「有昧王!!」
彼はその声に反応するかのように、1度だけ振り返って⋯。凍てついた表情のまま、こちらに手を翳すと。

中衣だけであった私の服を⋯まるで元に戻したかのように。温かい厚手の衣装へと変化させた。

そして⋯あの、ヒラヒラとしたスカート状ものではない。
男性用の、動きやすい⋯緩いパンツスタイル。

海の中で藻掻き、二度と着たくないと思わせた⋯あの服では、ない。

耳まで⋯温かい。
何かの毛で覆われたような⋯耳当てをしているような、温もりだった。

この人は⋯いつもそうだ。まるで私の心を見透かしているかのように。


そして⋯目の前に、ふわりふわりと浮遊するものがあった。
さっきまで焼いていた⋯文鰩魚だ。

「これを⋯食べろ、と?」

けれどそれが⋯更に不安を掻き立てる。

(自分はもう去るから、情けを⋯?)

助けてくれると信じてしまっていた。でも⋯手を離すとは⋯思ってなかった。

「有昧王⋯、待って」

「⋯⋯⋯」

少しずつ遠くなっていく彼の背中に⋯呼びかける。

「お願いだから⋯行かないで」
命を脅かそうが、そんなことはどうでもいい。

この無人島に一人、生きていく術もなく、頼る者もなく⋯
ただ、ひとり。

(たった1人に⋯しないで)



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