海棠/カイドウ〜哀をなくした不遜な軍師と、愛しき共謀者が綴る備忘録〜
「置いて行かないで、浮游(ふゆう)!!」


彼はゆっくりと振り返り⋯⋯、その灰色の瞳を見開いて、真っ直ぐに⋯こっちを見ていた。

1人には慣れているはずなのに、なぜこんなに⋯漠然としたモヤモヤが襲ってくるのだろう。

私は忘れてしまったのだろうか?
ずっと抱えていた⋯違和感。
知らない土地へ突如来て、恐怖も感じるし、喜びだって⋯知り得た。

けれど⋯
人間界から離れたことに対する情は?
家族と離れ離れになって会えないことに⋯思いは?

どうして、帰ろう、帰りたいとなぜ思わないのだろう?

浮游を信じかけ、そして裏切られた今⋯こみ上げてくるものは?⋯何かが欠落しているのだ。

かつて、心理学を専攻していた。
人間の感情の輪⋯それを私は言葉としても知っている筈だった。

なのに⋯だ。
それも一部の記憶が欠損している。まるで、それだけは思い出さないように⋯、と。
神隠しのように。





その違和感の正体は、離れた場所に佇む、彼の冷徹なその瞳から―
まるで私の心を鏡で映し出しているかのように。

答え合わせをしていた。

彼の瞳は極北この海を切り取ったような、硬質で冷ややかな灰色だった。そこには一切の感傷も、己の行いに対する迷いも存在しない。

けれどその凍てついた視界の端から、輪郭をなぞるようにして溢れた落ちたそれは⋯、見る者を抗いたい深淵へと誘い込む。

浮游は―⋯自分でも気づいていないのか。

その、一筋の熱に触れて、そこでようやく⋯まるで⋯自分の意に従わないそれを、目障りだと言わんばかりに。険しい眼差しで⋯拭い去る。
完璧な支配者の調律を乱す、忌々しいバグであると⋯思ってるのかもしれない。

でも⋯、流した事実に変わりはなくて。
どんなに彼がそれを拒絶して、冷酷な仮面を被り直そうとしても。もう⋯遅い。

私が失っているであろうそれを―⋯よりにもよって、この男が体現させたのだ。それは、私の心を映し出す鏡のように。

拒絶するその仕草が―⋯
私には、たまらなく尊いものに見えた。
私を支配し、傷つけ、それでも見放さずに救い上げる。そんな矛盾だらけの男が⋯不要な感情に侵食されて、一瞬であれど、人知れず⋯凄艶な姿を晒した。

もう、言葉を交わす必要なんてない。
彼がその涙を目障りだと思えば思うほどに⋯、私の心にのしかかる重みが、消え去っていくのだから―⋯。
















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