一夜だけの恋も、重い愛もいりません。〜添乗員しづの恋
 宴会の後、コンビニで買い物した帰り、ロビーで桑崎さんを見かけた。
 
 おっ。 浴衣だ。
 俺もそうだし、他の客もそうなんだけど、何故かこの人が着ているのを見たら、夏祭りに来たような浮き立った気持ちになる。
 
「それ、壊れてますよ」
 
 自販機の前で財布を開ける彼女に声をかけた。
 
「壊れてるって、どれ?」
 
 振り返って俺を見た桑崎さんの素っぴんは、昼間と全く印象が変わらない。
 
 アラサーのわりには肌がキレイだからかな。
 
 少しだけ話をして、その間に彼女の目線が俺の腕に移ったのを感じた。
 
 英子に貰った、俺には不釣り合いの腕時計に。
 隠してしまいたかった。
 
「じゃあ、そろそろ部屋に戻りますね。明日の集合は9時です、遅れないようによろしくお願いしますね」
 
「……あ」
 
 そうこうしてるうちに、桑崎さんはエレベーターに乗って部屋に戻ってしまった。
 
  ″部屋飲みしませんか? ″
 
 酒の勢いで誘おうとした。
 
 あの人が、軽率に客の部屋へ行くわけがないのに。

 話がしたければ、親密になりたければ彼女の部屋に行けばいいのだが、俺は彼女の部屋番号を知らないし、フロントに尋ねたりもしたくない。
 
 今夜は諦めよう。
 
 
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