エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている

プロローグ

 名刺に記された名前を見た瞬間、全身の血が音を立てて引いていった。

──神崎朔也《かんざきさくや》。

 思わず顔を上げる。
 そこに立っていたのは、記憶よりもずっと背が高く、冷たい光を纏った男だった。
 仕立てのいいスーツ、無駄のない所作、よく通る低い声。けれど、その瞳の奥に、一瞬だけ懐かしい空の色が滲んだ気がした。

 藤井朱里、二十五歳。
 都内の私立大学を卒業後、文芸に強みを持つ明月出版に新卒で入社し、今年で三年目になる。
 配属は編集部ではなく、総務部総務課。経理や庶務、労務、法務まで幅広く扱う部署だ。

 最初は戸惑った。
 それでも、編集部とは違う立場で「本を支える」仕事にやりがいを見出し、今では課の中心的な存在として業務を任されている。
 中でも朱里が主に担当しているのが、法務関連だった。契約書の確認、著作権管理、トラブル時の初動対応。
 出版業は、想像以上に法律と密接に結びついている。だからこそ、顧問弁護士との連携は欠かせない。

 これまで担当していたベテラン弁護士は高齢を理由に引退準備に入ったようで、先日「次は若い弁護士に引き継ぎます」と連絡があり──今日が、その初顔合わせだった。

「こちら、今月から担当していただくことになりました神崎です」

 法律事務所の佐原がそう紹介する。
 時間が、わずかに引き延ばされたように感じた。

「神崎と申します。よろしくお願いいたします」

 深く一礼する、その声。
 視線の静けさ。
 どれも、記憶の中の彼と変わらない。

「総務課長の島崎です。実際のやり取りはこちらの藤井が担当します」

 名前を呼ばれ、はっと我に返る。

「……総務課の藤井朱里です。よろしくお願いします」

 差し出した名刺を、彼は丁寧に受け取った。

「神崎朔也です。名刺、頂戴いたします」

 白い紙に印刷されたその名前が、確かに視界に入る。

 神崎朔也。
 十年前、中学三年の冬。
 言葉を交わせないまま、すれ違って終わった初恋の相手。

 胸の奥がざわつく。けれど、ここは職場だ。朱里は感情を押し込み、静かに席に着いた。

(まさか、こんな形で再会するなんて)

 もう二度と会うことはない。
 そう信じて、そうやって自分を納得させて、十年が過ぎた。

 それなのに今、彼は弁護士として、目の前に立っている。
 まるであの冬の続きを今から始めるかのように。
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