エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている

エピローグ

 2月。外はまだ白い靄がかかっている。
 寝室は暖房と布団のぬくもりに包まれ、外の冷気とは別世界だった。

 朱里が目を覚ますと、視界いっぱいに朔也の肩と首筋。ゆっくりと視線を上げれば、彼の穏やかな寝顔がある。

「……起きてるの?」

 小さく囁くと、目を閉じたまま低い声が返ってきた。

「ん……起きてる。もうちょっとこうしてたい」

 そう言って腕を伸ばし、朱里の腰を引き寄せる。彼の体温が、布団の中でじわじわと染みこんでくる。

「寒いだろ。もっとこっち来いよ」
「もう来てるよ」
「足も」

 くすぐったくて笑いながらも、素直に彼の足と絡める。彼の体はしっかりと温かく、心臓の鼓動が心地よく響く。

「……夢みたいだな」
「なにが?」
「朝起きて、一番に朱里がいるってこと」

 低く優しい声が、耳元で溶けていく。

 朱里は思わず目を逸らし、照れ隠しに枕を軽く押しつけた。

「朝からそんなこと言うの、反則!」
「じゃあもっと言う」

 そう言って、彼は朱里の額に唇を落とし、さらに頬、耳元と、ゆっくり辿る。

「……仕事行けなくなるでしょ」
「それが狙い」
「もう、子どもみたい」
「子どもならこんなことしないだろ」

 軽く唇が重なる。柔らかくて、温かくて、布団の中の空気ごと甘くしてしまうようなキスだった。



 年末の懇親会で想いを伝えあってから、すぐにお正月、お互いの実家に挨拶に行った。

 朔也の母は暖かく迎えてくれて、祖父母のお墓にも御参りすることができた。
 朱里の両親は驚くばかりだったが、朔也の職業を聞くと手放しで喜び、朱里は苦笑いしか出なかった。

 朱里の部屋は1月で解約し、会社も近いので、新居が決まるまで朔也の部屋で同棲をしている。

 そんなバタバタな1月が過ぎて、ようやく落ち着いた2月。

「もーう!仕事いく!」

 絡んでくる彼の肩をぐいーっと離し、半ば逃げるように洗面所へ駆け込んだ。

 通勤は楽になったけど、朔也との毎朝の攻防のせいで出勤時間は以前と変わらない。

 同棲してから気付いたけど、彼がこんなに甘えてくるなんて思わなかった。

 もちろん料理も手伝ってくれるし、後片付けや掃除なんかも全部やってくれて、朱里を甘やかしてくれるけど、こんなにべったりじゃ流石に身が持たない。

 ***

「藤井さん、ちょっと」

 ついあくびが出そうになっていた朱里は慌てて顔を上げた。上司の課長が打ち合わせ室から手招きをしている。

「はい」

 デスクから立ち上がり、課長の前まで歩いていく。打ち合わせ室の扉を閉めると椅子に座るよう促された。

「あのさ、小耳に挟んだんだけど……結婚するんだって?顧問弁護士と」

 課長と向かい合って何を言われるかと身構えたが、唐突な言葉に朱里は思わず小さく笑ってしまった。

「あ、はい。そうです」
「いつの間にそんなことになってたの!あれでしょ、ほら、昨年末ここに挨拶に来た……」
「ええ、まあ、色々とありまして」

 彼と元同級生ということは、特に説明する必要はないと考えて曖昧に濁す。

「すごいな!スピード結婚!?」
「あはは、まあ、そうですね」

 課長は純粋に驚いている。朱里もそれについては否定しなかった。

「みんなにはいつ頃言うの?」
「式は春頃なんですけど、その前に彼が籍を入れたいみたいで……名前が変わる頃に、と思ってます」
「そうか。なんにしてもおめでたい。入籍の日が決まったら教えてくれよ。人事の方にも届けがいるからな」
「分かりました」

 課長の柔らかな笑顔に、朱里も深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 デスクへ戻る途中、ふとスマホが震えた。画面には、彼──朔也からのメッセージが。

《今日、早く帰れそう》
《車で迎えに行くから、どっか食べに行こう》
《考えといて》

 思わず口元がほころぶ。

《分かった。じゃあ、和食で》

 短く返して送信すると、すぐに既読がついた。



 夕方、会社を出ると、正面玄関の前に黒いセダンが停まっている。
 この車も先月買ったばかりだ。
 運転席から降りてきた朔也が、軽く手を上げた。

「お疲れ」
「お待たせ」
「店決めといたよ。和食な?」
「うん、ありがとう!楽しみ」

 シートベルトを締めた瞬間、エンジンが静かに唸りを上げ、車は夕暮れの街を走り出した。

 信号待ちでふと視線を向けると、朔也がハンドル越しに短く笑う。
 その笑顔に、胸の奥がじんわり温かくなった。

 朱里は、運転をする時の彼の横顔が好きだなと漠然と思う。
 なんだかんだ言っても、朔也の側が一番心地良いのだ。


 着いた場所は和食の創作料理の店だった。

「え、ここ、高いんじゃ」
「たまにはいいだろ」

 朔也は気にせず入っていく。

 案内されたのは奥の個室。
 和食、といってもほぼ定食屋さんの感覚で答えていた朱里は狼狽えながらも彼に続いた。


 料理はどれも美味しく、楽しく会話をしながら食事を終えたが、
 ふと、なにかあるのかな、と思っていた頃──。

 朔也はジャケットの中から小さな小箱を取り出した。朱里に向けてゆっくり開くと、中には光を受けて煌めく指輪が収まっていた。

「この間2人で注文したのが、出来上がったんだ。連絡が来たから受け取りに行ってた」
「わあ...」
「……改めて、俺と結婚してほしい」

 朱里の胸は高鳴り、言葉が出そうで出ない。しばらく沈黙が続く中、朔也は優しく手を握り直す。

「前よりも、ずっと真剣なんだ。俺は朱里をこれからも大事にしたい」

 朱里はゆっくりと頷き、涙がほんのり光る。

「……はい。もちろん、よろしくお願いします」

 朔也は朱里の手に指輪をそっとはめ、二人の手が重なった。

 店内の柔らかい灯りの下で、二人だけの時間が、再び静かに流れていった。


 春は、もうすぐそこまで来ている。




 ―END-
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