エリート弁護士の神崎くんは、初恋を拗らせている
 レストランを後にすると、外はすっかり夜も更けて、辺りには灯りも少なくなっていた。

「介護してたなんて、全然知らなかった」

 朱里は前を歩く朔也の背中にポツリと投げかける。車のロックを解除してから、朔也は振り向いた。

「そんなに大げさなものじゃない。大学入って少し経った頃に、先に祖父が亡くなって、それまでは祖母が面倒見てたから。俺は風呂に入れたりとかだけで」

 言いながら、助手席のドアを開けて朱里を促す。

「祖母の時はヘルパー呼んでたし。夜は母もいるから、病院の送迎ぐらい。最期に司法試験受かったこと伝えられただけでも良かった」

 車に乗り込んだ彼は、そう言ってエンジンをかけた。

「……お母さんはどうしてるの?」
「実家で一人で暮らしてる。今度……紹介したい」
「うん、そうだね」

 走り出した車の窓から夜の街灯が微かに照らし、彼の横顔の輪郭が浮かび上がった。

 ──顎のラインが、きれい。
 ──昔より、ずっと大人の顔。

 自分の知らない朔也の10年を、知ってみたいと強く思う。

 朱里は、続けて彼の手元に視線を落とした。

 ハンドルに添えられた手が、大きくてしなやかで、指先の動きひとつにも余裕と落ち着きが滲んでいる。
 信号待ちの瞬間でさえスマートで、絵になっている。

 思えば、こんなに間近で“男の人”を意識したのは、初めてかもしれなかった。

「もう少し、付き合ってくれないか?」

 しばらくして朔也はそう言うと、軽く笑みを浮かべた。

「まだ曇ってるから、朝焼けのリベンジは賭けだけどな」

 もう帰るものだと思っていた朱里は目を瞬かせて、彼を見つめた。

「それって……夜明けまで一緒にいるってこと?」

 ハンドルを握る手に力がこもる。

「いや?」
「う、ううん。いやじゃないよ」

 その答えに安堵したように、朔也は前方へ視線を戻し、アクセルを踏み込んだ。

「まだ時間もあるし、せっかくだから──中学の時に約束した、あの河原に行こう」

 朱里の瞳がぱっと輝く。

「うん! 行く!」

 ハンドルを握り直しながら、朔也はふっと笑った。

「夜明けまで一緒にいれば、すれ違うこともないしな」
「そうだね」
「あの頃は正直、無謀だったな。夜明け前に約束なんて、悪かったと思ってる」

 朔也は僅かに顔を歪めて苦い表情を見せた。

「ううん、そんなことない。行きたかったよ。わたしも、一緒に見たかった」
「……ありがとう」

 揺れる街灯の光の中、二人の距離は、静かに、確かに縮まっていった。



 車のライトが川沿いの道を照らし、やがて舗装が切れたあたりで朔也はゆっくりとブレーキを踏んだ。

「……着いた」

 エンジンを切ると、世界が一気に静まり返る。
 誰もいない河原には、遠くで流れる水の音と、冷たい風が草を揺らす音だけが響いていた。

「夜だから、あんまり分からないな」

 朱里は窓越しにあたりを見回した。暗くて細部までは見えないけれど、中学のあの日と同じ川の匂いがする。

「降りてみる?」
「……うん!」

 ドアを開けた瞬間、張りつめた冷気が一気に頬を刺す。
 吐く息は白く、あっという間に夜空に溶けていった。

「──っ、さむっ!」

 朱里が肩をすくめると、朔也は小さく笑い、自然な仕草で彼女の手を取った。

「冷たいな。……車に戻るか」
「え?せっかく来たのに」
「風邪ひかれたら困る」

 結局ふたりはすぐに車へ戻り、再び暖房の効いた車内に身を沈めた。外気との温度差で、窓ガラスが僅かに白く曇っている。

「こうしてると、時間が止まったみたい」

 朱里はシートに体を預け、窓の外の夜空を見上げた。

 暖房の効いた車内。外は氷のような寒さだというのに、二人の空間だけはやわらかく温もっている。

 朔也は前方の川を眺めながら、ぽつりとぽつりと自分のことを話してくれた。

 祖父母のこと。両親の離婚のこと。
 弁護士を目指したのは、お母さんのことがあったからということ。

 朱里も、家族のこと。今の仕事のこと。
 夢や目標など、2人でたくさん話をした。


「よく塾さぼってここで勉強してたよな」
「あー、あの頃は窮屈だったから」
「……今は?」
「一人暮らししてからはだいぶマシになったかな。相変わらず母親はうるさいんだけど」
「そっか。おまえの両親にも、ちゃんと挨拶に行きたい」

 不意に向けられた真剣な言葉に、朱里は驚いてまばたきをした。

「え……ほんとに?」

 朔也はハンドルに置いた手を軽く握りしめる。

「今度はちゃんとしたい。もう、中学の頃のガキじゃないんだ……絶対に手放したくないから」

 その瞳は、夜の闇の中でもまっすぐで、ひと欠片の揺らぎもなかった。

 朱里は頬に熱がこもるのを感じながら、小さく息を吸い込む。

「……うん。ありがとう……嬉しい」

 彼女の声は少し震えていた。


「できれば、早く一緒に暮らしたい」

 そう言って、朔也はゆっくりと彼女の肩に額を預けた。

「……っ」

 朱里の心臓が一瞬止まりそうになる。こんな朔也の仕草は、今まで見たことがなかった。
 強くて、頼れる人──その彼が、今は少しだけ甘えている。

「……だめ?」

 低く囁かれた声が、鼓膜をくすぐった。

「だめじゃない……」

 朱里は緊張で全身が強張る。
 吐息が触れそうなほど、彼が近くにいるのだ。

 朔也は顔を上げて朱里の顔を覗き込んだ。
 彼の右手が朱里の頬にそっと触れる。
 親指が唇をなぞっていく。

「朱里」

 名前を呼ばれた瞬間、ぴくっと肩が動いた。
 彼の整った顔がゆっくりと近づく。

「名前で呼んでいい?」

 触れる寸前で問いかけるも、彼は返事を待たずにそのまま朱里に口づけた。
 ちゅ、ちゅっと啄むように、数回重ねたあと、右手を朱里の後頭部に移動して、より深く吸い付いた。

「んっ、うん」
「朱里、朱里……朱里」

 朔也は名前を呼びながら、角度を変えて何度も求める。

 徐々に2人の吐息が絡み合い、口から鼻にかかった甘い声が漏れた。
 頭の中が痺れたようになっていく。

 好きな人に名前を呼ばれるだけで、こんなにも心が震えるなんて思わなかった。

 朱里は助手席のシートと朔也の間に挟まれて身動きが取れない。ただ、彼の情熱を受け止めるのに精一杯だった。


「っ………ごめん」

 何度目かのキスのあと、ぴったりとくっついていた唇が離れ、ようやく朔也は身体を起こした。

「やばいな、車の中は」

 朔也は腕で顔を隠しながら照れたように呟く。

 「頭、冷やしてくる」と、耐えかねたようにドアを開け外へ出た。

 すっかり息が上がってしまった朱里は車内で一人身悶えた。

(こんなの、こんなのっ!心臓がもたないってば!)



 外では、東の空がわずかに白みはじめていた。
 夜と朝の境界線──星が一つ、また一つと瞬きを止めていく。

 朱里は朔也の後を追った。
 寒さで吐く息が白くほどける。

 朔也は朱里に気づくと、無言のまま彼女の肩をしっかりと抱き寄せた。
 その体温が、冷えきった頬や指先までゆっくりと染み込んでくる。

「……寒くない?」

 低く落とした声が耳元に届く。

「うん、大丈夫。……あったかいから」

 朱里が答えると、彼はほんのわずかに口元を緩めた。

 空は刻一刻と色を変え、橙、金色、そして淡い白が混ざり合っていく。
 やがて、太陽の輪郭が山の端から顔をのぞかせ、川面がきらきらと輝き出した。

「……きれい」

 朱里が呟くと、朔也も同じ方向を見つめたまま、静かに頷いた。

「やっと、見られたな」

 その声には、中学の頃から積み重なってきた年月の重みと、今この瞬間への安堵が滲んでいた。

 しばらくの沈黙のあと、朔也がぽつりと呟いた。

「これからも、こうして一緒に朝を迎えたい」

 朱里は胸の奥が熱くなり、ただ「うん」と小さく頷く。

 きっとこの朝焼けを、一生忘れない。

 二人は何も言わず、ただ肩を寄せ合いながら、その光景を胸に焼き付けた。

 冷たい冬の朝、川面に映る朝日は、まるで二人の未来を祝福しているかのように温かく輝いていた。
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