手を、つないで
20時過ぎ。
ゆるゆると進めていた作業を打ち切った。
彼女がいる部屋の電気が消えたからだ。
部屋といっても、背の高いパーテーションで仕切ってあるだけで、天井には隙間がある。彼女のいる部屋は隣だから、電気が消えればすぐわかる。
トイレに行くふりをしたり、飲み物を買うふりをしたり、なにかと用事を作って、隣の部屋の様子を窺っていた。今、残っているのは彼女だけ。だから、電気が消えたということは。
帰り支度は済んでいる。パソコンの電源を落とすと、高井戸が振り返る。
「あれ、終わり?」
頷くと、高井戸はなにか言いたそうに自分のモニターと俺を交互に見る。
「お先」
多分、飯か酒に誘いたいんだと思う。なんとなくわかる。
でも今日は駄目だ。有無を言わさず背を向ける。
「おつかれ〜」
後ろから聞こえた。ちょっと振り向いて、手を上げた。もう声はかからない。
ふう、と息を吐いて、部屋を出た。
エレベーターの前。彼女の姿が見えた。
近づいていく。足音が聞こえたのか、彼女が振り向いた。
俺を見て、緊張したのがわかった。やっぱり怖がられてるだろうか。でも、あの時彼女は『怖くない』って言ってくれた。
「お疲れ様です」
平静を装う。心臓が鳴り始めた。
「お、お疲れ様です……」
彼女がちょっと頭を下げる。髪が揺れる。それにも心臓が跳ねる。
待ってる間にシミュレーションはした。準備だけは完璧なはず。
「……中森さん」
彼女が弾かれたように見上げてくる。
「は、い」
ちょっと掠れた声に、一瞬ひるむ。具合悪いとかじゃないよな。
いやでも、もし具合が悪いならなおさらだ。勇気を出して、用意していたセリフを口にする。
「あの、送ります」
彼女の目が点になった。
「遅いから。……嫌じゃなければ」
きょとんとしている。頭の上に?が見える。俺、変なこと言ってないよな?
「どう……で、しょう、か」
ちょっと弱気になった。
彼女はこくこくと頷く。
嫌じゃない、ってことだよな。
「……じゃあ」
エレベーターのドアを押さえる。
彼女はささっと入ってきた。その仕草が可愛い。
「あの……お願いします」
良かった……。彼女の意思がわかってホッとする。嫌じゃないって思ってくれてた。
彼女が俯く。でもそれは恥ずかしいからのようだ。俯く前に一瞬見えたのは、笑顔だった。今は顔を赤くしているのが、俺の位置からでも見える。
それを見たら、俺も顔が熱くなってきた。
沈黙が心地いい。ずっとこうしていたいくらいに。
エレベーターが1階に着いた。
同時にスマホが震える。電話だ。
……高井戸。間が悪過ぎる。
「すみません、ちょっと」
黙殺してもいいけど、緊急かもしれない。
「はい、どうぞ」
彼女は笑顔で頷く。
もし緊急だったら。戻らないといけない事態だったら。
恐怖を抑えて電話に出る。
「……はい」
『あ、松永、今まだ下でしょ?飲み行こうよ』
「え、無理」
良かった、緊急じゃなかった。
安堵と引き換えに、冷たく即答してやる。
『えー、俺今日はもう終わらせたからさ、付き合ってよ』
「いや、だから無理だって」
『今下に着くから』
「おい、ちょっと」
途中で切れた。話してる間にエレベーターが着いた音が聞こえていた。
「もう着いちゃったーって、あれっ中森さん」
振り返る。
視界に入ったのは、同じく振り向いた彼女と、その向こうに現れた高井戸の姿。
高井戸は彼女を見て驚いている。予想外だったんだろう。
彼女を見て、俺を見て。
察した。
「あっ……あー……」
高井戸は小さな声でうなった。
俺は、きっとこの上なく冷たい目で高井戸を見ていたに違いない。社内で密かに『冷製鉄仮面』と呼ばれていることは知っている。多分その顔のはずだ。
高井戸はスッと目をそらした。そして、ごまかすように笑う。
「ごめん、やり残した作業思い出した。戻るわ。中森さん、お疲れ様でした。気をつけて」
しらじらしい言い訳。でも良かった。いつもの高井戸なら、彼女も誘って飲みに行きたがるはずだ。引き下がってくれただけでもありがたい。
「あっはい、お疲れ様でした……」
彼女は律儀に挨拶を返す。そして俺を振り返った。
自分の顔が元に戻るのがわかる。我ながら現金だと思った。
「行きましょう」
彼女と一緒に外に出た。
後は……伝えるだけだ。