手を、つないで
5.茉歩
結局、定時では帰れなかった。
周囲がひくほど集中して今日のタスクを終えて、急いで帰ろうとした定時少し過ぎ。
急な仕様変更が入り、帰れなくなった。
仕方ない、とにかくやるしかない。
進めるうちに、用事ができてしまった。彼の隣の列の席、高井戸さんに。
いつもは社内チャットで会話するんだけど、これは直接話した方が早くて正確だ、という用件。
そっと覗くと、高井戸さんの頭が見えた。
同時に、その手前の列に座っているはずの彼の頭も確認する。いない。
いつもなら、彼はまだ絶賛残業中の時間だ。今日は珍しく帰ったんだろうか。
彼の姿が見られなくて残念だけど、今日に限っては気が楽だ。
「高井戸さん、今少しいいですか?」
高井戸さんが振り返る。
「ああどうぞ〜」
ニカッと笑ってくれる。
「さっきチャットでお話した件で……」
言いながら、タブレットを出しつつ、高井戸さんの横に行く。
彼の席で、空の椅子がこちらを向いている。
空席なのに、彼の視線を感じるようでいたたまれない。
思わず、しゃがんでしまった。
高井戸さんは、一瞬『?』という顔をしたけど、特に追求されることもなく仕事の話を続けた。
しばらく話していたら、彼が戻ってきたらしい。座る音が聞こえた。やっぱりまだいたんだ。
気になる。気になるけど、仕事仕事、集中集中……。
「了解です。じゃあその方向で」
「よろしくお願いします」
話は終わった。
立ち上がったら、ちょうど彼と目が合ってしまった。
ああまずい、一気に顔が熱くなった。きっと赤くなってる。急いで戻ろう。
「じゃあ戻ります」
高井戸さんに言い、彼には目礼して歩き出す。
彼も目礼を返してくれた。いつもの無表情。でも目が優しい気がする。違う、私の願望が入っててそう見えるだけ、きっと。
駄目駄目、ますます顔が熱くなる。もう早くここを出ないと。
「あ、中森さん」
高井戸さんに呼び止められた。こんな時に。
「納品終わったら打ち上げするそうです。営業仕切りで。来週末に」
そんなのチャットでいいのに……。
「空けといてくださいって、広瀬が。よろしくお願いします」
広瀬さんは、今のプロジェクトのチームリーダーで、営業担当。打ち上げの仕切りは広瀬さんがやる、ということなんだろう。
「わかりました」
廊下に出る。まだ彼の視線を感じる気がする。
ますます顔が熱くなるのを感じながら、自席に戻った。